イノベーションの風に吹かれて

山下技術開発事務所 (YAMASHITA Technology & Engineering Office, LLC)

欲望の資本主義4 スティグリッツ×ファーガソン 不確実性への挑戦: コロナ危機の本質

ファーガソン歴史学者としてパンデミック歴史的評価を「これまで国家が準備し十分だと思われていた対策が実は全く効果がなく最悪の対応になった。また、その理由は述べられていない。」と口にする。都市のシャットダウンはさらに経済を停滞させ、自らシャットダウンした経済を再び刺激することはできないと断ずる。パンデミックの経済対策に対して「小切手を配ってもお金を強制的に使わせることはできない」その結果として貯蓄性向が高まり長期の経済停滞を予想する。日本が長らく苦しんだ成長無きデフレだ。デフレの病魔は国家の深層に入り込み人々の心理に暗くしつこい影を落とす。それは様々な活動において創造性や未来への挑戦よりもコストパフォーマンスだけに価値を置く、現在の日本の姿だ。また、グローバルの大企業はコストカットのためにグローバル分業を推し進めてきたが、結果として国内労働者は発展途上国の低賃金労働者との競争を強いられ、国内に超低賃金が輸入されてきた。そのようなグローバル資本主義の常態に起こったパンデミックで、社会に供給される緊急の失業給付金は低賃金の労働に比較した時に、労働意欲を失わせ失業率をより高くなる方向に社会を誘導してしまう。ファーガソンの描く経済的な未来は、暗くしつこいデフレの悪夢と低賃金に喘ぐ大失業時代の到来だ。さらに国際政治について、中国の経済発展の限界の予兆、そして最終的には米中の緊張が中国による台湾攻撃に端を発した戦争に発展すると未来を予想する。パンデミックを目の当たりにしたショックなのかとてもペシミスティックなファーガソンだが、一方でGAFAの作るサイバー空間での経済活動に対して比較的楽観的に構え、Zoomなどの非接触の空間を受け入れているように見えるのが対照的だ。
スティグリッツの現在の経済への見方も悲観的だ。2017年以来米国は低金利財政出動で経済を刺激し続けてきたが、それでもたったの2%しか経済成長を果たしていない(日本は2%目標すら達成できていない)。そこにやってきたパンデミックは破滅的な出来事だ。インタビュー時点では株式市場が堅調な米国だが、スティグリッツは二つの視点でその歪みを指摘している。一つは、失速した経済に対して当局は低金利の金融緩和政策で臨んでいるために、債券市場にから株式市場にお金が流れ市場の価値に比較して株価が膨れ上がっているだけだという指摘だ。つまり土地や球根などの投機対象すら存在していない虚空のバブルだ。もう一つは給付金だ。経済刺激策として投下されている給付金だが市民はそれを消費に回すことはなくかつてないほどの貯蓄性向を示している。しかし銀行に預けても利息もないために、株式投資にに流れているというのだ。これも経済の実態を表したものではなく、いつかは破綻すると予測する。
このようにお金の流れが澱み滞ってしまう病魔への処方箋はあるのだろうか。スティグリッツはヒントは宇沢弘文先生の「社会的共通資本」にあると論じる。資本市場の大企業は環境や社会インフラ、教育、医療などの社会的共通資本のフリーライダーで応分の負担をしていないように思われる。グローバル企業に国際的な枠組みで炭素税を段階的に導入するなどの仕組みを考えていく必要があると指摘している。また、金融緩和によって銀行にお金を貸し付けるよりも政府が公共事業を行いインフラ投資をしたほうが社会資本への還元が期待できると言っている。資本主義の利潤の役割は権力を分かち合うための分業だった。それなのに分業は大企業の強欲な利益追求のために使われて、国際的な搾取と貧困の輸入という事態を招いている。こうした低賃金は能力の差ということでは説明できないほどの格差を生じさせ、不平等をもたらしている。スティグリッツは、かつてフランクリン・ルーズベルトが法定最低賃金を定めたことで南部にいた奴隷労働者を解放したり、北欧福祉国家の高賃金労働者がクリエイティブなイノベーションを引き起こしてきたりという事例を引きながら、社会の発展のためには適切な賃金レンジが存在しているのだと示唆しているのだ。
宇沢先生は「自動車の社会的費用」のなかで自動車は安全や環境に対してより多くの負担をするべきだと言いました。自動車の便益と費用のバランスの中に安全や環境への配慮が必要なのだ。まあ、日本では重量税や自動車税など通常商品に比較して負担は大きいものだけれどこれからの自動運転車の導入に際して安全な社会インフラとしてどのような負担が望ましいのか、考えさせられる。
スティグリッツは相変わらずトランプ政権に対し厳しい態度を取っているが米巨大IT企業に対しても同じように厳しい。GAFA、主としてFacebookは自らの利益のためにフェイクニュースを放置してきたと指弾する(実はTwitterもだが)。報道表現の自由は権利であるけれど、満員の劇場で面白半分に「火事だ」と叫ぶ権利は誰にもない。また一時期批判の的にさらされたLibra仮想通貨に対しても否定的な意見を述べる。しかし、スティグリッツの仮想通貨への理解は浅く、暗号は秘密通信なだけではなく信頼の証明に用いられていることがわかっていないようだ。自らもそう言っているようにブロックチェーンや暗号通貨に対する理解不足のスキを中国が突いている。

シリーズを監修してきた丸山はあとがきで「経済もパンデミックも数字やグラフによって表されている」と述べている。われわれの生きるすべである経済や生命への脅威であるパンデミックも株価、GDP、感染者数というような数字になって処理されている。本当は豊かさや健やかさというのはもっと人間的な実感を伴ったものではないのか、という還元主義的な社会通念に対する厳しい批判だ。パンデミックであらわになった東京一極集中のリスクは、実はパンデミック以前から地方経済に巣食っていた吸血鬼(ストロー現象ともいう)だったのだ。資本主義の闇は元からそこにあったのだ。

インターネットが邪悪で強欲な意思に支配された【ケンブリッジアナリティカ事件】

 インターネットが邪悪で強欲な意思に支配される

本書はケンブリッジアナリティカ事件の中心にいた研究者であり技術者の告発であり、その裏側の邪悪な意思のストーリーです。パーソナルプロファイリングの5因子やフィルターバブル、コミュニティクラスター、ユーザーリテンションアルゴリズムフェイクニュースなどこれまでに暴かれた技術的な要素がどのように邪悪な意思によって操られてきたのか、本人の口から語られます。アシモフの「ファウンデーション」で描かれたような社会と精神世界のデジタルツイン空間を作ろうという技術的な興味は、IBMでもピープルプロキシーやパーソナルプラファイルのセンチメントリアクション、SNA(Social Netowrk Analytics)のエージェントベースシミュレーションなど、基礎的な技術が研究開発されてきました。スティーブ・バノンはその強力なネットワークを用いて社会を支配し過激思想によって社会を変化させ、ケンブリッジアナリティカはそこから巨万と富を得たのです。フェースブックは自らの広告収入メトリクスであるユーザーリテンションを大幅に上げ、偏った富を分け合いました。ブレグジットはマイクロターゲッティングの矛盾したメッセージによる実験として、そしてトランプ選挙はロシアの(政治的というよりは政商的な)介入によって成し遂げられました。どちらの結果も不正な操作によるドーピング違反なのだけれど、スポーツのような公正さのない政治の世界ではその結果が覆ることはなく社会は分断と不安に陥れられたまま、パーマネントな変化です。また、インターネットジャイアントと言われている巨大プラットフォームは資本市場に君臨し、富の偏在とそれによる自由主義・資本主義経済の破壊を進めています。

誰もが騙されているのに、正気に戻る者はいない。次に人類が見るのはディストピアに違いない。

 

クリストファー・ワイリーは技術者らしく、本書の終わりに以下の4つの提言を述べています。

  1. インターネット版建築基準法
    インターネット上に構築されるシステムが住民の安全を守る安全なアーキテクチャであることを監督する安全基準を設ける。ユーザーの同意があれば何をしてもよいというような不適切な同意メカニズムに「効果の相応性」という枠組みを導入する。
  2. ソフトウェアエンジニアの倫理規範
    医師や弁護士は常に患者や依頼者の利益を第一に考えるのと同じように、ソフトウェアエンジニアはソフトウェアの開発元ではなく取り扱うコンシューマー一人一人の権利に忠実であるべきだ。医師免許、司法試験、一級建築士免許とおなじように規範から外れたものを除名できる制度と、規範を守る範囲で会社からの報復を恐れることのない保護が必要だ。
  3. インターネット公益事業
    インターネット上のプレゼンスがあまりに大きくなった時、その事業は公益事業としての規制を受けなければいけない。しかし、スケールを理由に電力を罰することはないのだから同様にスケールを理由に巨大プラットフォームを分割・解体してはならない。その代わり、デジタル共通資本(コモンズ)、デジタル消費者の権利を守る中心的な役割を果たすべきだ。
  4. デジタルコモンズの受託者責任(スチュワードシップ)
    「デジタル監督庁」の創設によりプラットフォーム事業者を監督・管理する。個人データの価値を正当に評価して独占禁止法を実効的にする。

特に建築基準法と倫理規範の免許制度には純粋な技術者として、アーキテクチャガバナンスへの期待が隠されています。しかし、コンピュータアーキテクチャやソフトウェアアーキテクチャ、サービスシステムアーキテクチャなど抽象化された構造と判断など理解できる技術者は少ないのが現実です(自らアーキテクトと名乗っているものでも比率は変わらない)。そもそもインターネット上のas a Serviceのサービスとは何か、サービスプラットフォームとは何かすら理解できていないのですから。そんな中で正義の認定技術者としてのアーキテクトの出現は非常に難しいのではなかろうかと思います。また技術者としてのまっとうなアーキテクト判断が、システムライフ全体で金儲けと対立した時に尊重されたことなど今までかつてなかったと断言できます(私が前職を辞した理由もこれだ)。工学部建築工学科とおなじようにサービス学部アーキテクチャ学科が社会一般に認められ全国立大学に設置されるくらいにならないと建築基準法の制定はできないと思われます。

ケンブリッジアナリティカ事件でフェースブックは利用されたプラットフォームのような顔をしているが被害者なんかではありません。シリコンバレーの強欲はロンドンの小悪党にいいように使われたのだけれど、私はインターネットが邪悪なわけではないと信じていたいと思います。インターネットが不均一なスケールフリー性を維持しているのは、ネットワークの高い持続可能性を分散システムとして設計に組み込まれているからです。しかし、インターネットを文字通りオーバーレイしているプラットフォーム事業者は不均一性を掻乱し自らに都合の良い中心性を設計してバラバシの優先的選択(ネットワーク効果)による独占と富の集中を実現してしまいました。インターネットを不均一なスケール不変性に立ち戻らせるためには、商用利用でゆがめられた設計思想の支柱:バックボーンを叩きなおす、文字通り構造部材を叩いて直す現代の棟梁が必要なのだと思います。




マルクス・ガブリエルが唱える精神のワクチンとは?NHK BS1スペシャル

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マルクス・ガブリエルが唱える精神のワクチンとは?NHK BS1スペシャ

コロナに対する行動を慎重(10)から無視(1)とした時に自分の行動指針は7くらいでガブリエルさんと同じくらい。3くらいの人がマスク拒否したり集会開いたりするのは、どうかと思うけどできるだけ近寄らなければいいかな。近くでタバコ吸われるのと同じで、くそ迷惑だけどこっちで避ければいいことだよね。1や2くらいの人はちょっと攻撃的で価値観が違いすぎる。ガブリエルさんは相変わらず、答えが決まってしまう科学を否定する。科学は物事の成り立ちを探求するものだけど、それはすなわちわからないことがわかることだと思う。だからコロナに対して、科学的に「わからないことが多いから」今はすこし慎重な7の対応ができるのだと思うよ。

唯物論、物質主義、消費資本主義が限界を迎えているなかで、モノの希少性に駆り立てられるのではなく思考という無限の地平を求めよう、というのは非常に面白い。思考することを思考する、重層化した考えは前のインタビューでも語られていたことね。斎藤幸平氏マルクス解釈でも労働という人間の営みを無限の泉のような「ラジカルな潤沢さ」としていて、私にとって労働は思考の結果でもあるので、強い共通性を感じる。そういう意味で、芸術とかスポーツとかも内省的で限界のない世界なんじゃないかな。そういうもので自分を成長させることも思考と同時に大事だと思うけど、どうかな。https://sociotechnical.hatenablog.com/entry/2020/10/04/090744

「時間は存在しない」~中世初期のラテン教父、アウグスティヌス(354―430)は「過去はすでに過ぎ去って存在せず、未来はまだやって来ていない」と時間を運動と速度から切り離してみることで時間は現在にしか存在していないといいました。時間の相対性は物理学上の一つの発見でもあります。https://sociotechnical.hatenablog.com/entry/2019/10/27/222012

科学の発見とガブリエルさんの哲学の発見が、時間という未知のフィールドでまみえるのは、良いことだと思う。

 

コモンズの謎を解く、資本主義の行く末の一つの答え

 

著者はあとがきでひとりごちる「マルクスで脱成長なんて正気か?」
革新という古臭さを乗り越えてマルクス主義に立ち戻るなんていう衝撃をあなたは受け止めることができるか?

ジェレミー・リフキンの限界費用ゼロ社会、デビッド・グレーバーの負債論、スティグリッツプログレッシブキャピタリズム、そして宇沢弘文で繰り返し語られる資本の強欲とそれに対峙する社会的共通資本に関する議論を一つにまとめて、マルクス資本論の真意に迫った斎藤幸平氏が示す理論と実践の書。リフキンの示したシェリング経済、グレーバーの貨幣経済スティグリッツの公的資本など資本主義の次のあるべき姿から、どうしても宇沢の社会的共通資本に繋がらなかったミッシングリンクはここに存在していた。

インターネットのスケールフリーな不均一性がプラットフォーム事業者の巨大な中心性に飲み込まれ、ピアツーピアの原則が損なわれ経済的な格差を大きくしている。ウィズコロナのビジネス、ライフスタイルに乗じて危機便乗型の市場収奪は目に余る。社会の産業が資本家を中心に労働を搾取していったことを、インターネットは指数級数的に加速している。パリや京都ではAirBnBのようなルームシェア経済は、不動産価格を住む場所の価格帯からホテルルームの資本回転率の世界にしてしまった。不動産市場では投機対象となってしまったアパートや高級マンションはかつての住人を追い出して、もはや住む人もいない。そしてそこに住んでいた人たちを貧困へと追いやっている。デヴィッド・グレイバーやスティグリッツは言う「資本主義の獰猛さによって労働組合や公共医療等が解体され」労働者の生活よりも資本の理論が優先される。

資本主義は境界を押し広げ辺境を求めて彷徨い、自然環境変化のポイントオブノーリターンなプラネタリバウンダリに近づいている。フレドリック・ジェイムソンの「資本主義の終わりを想像するよりも世界の終わりを想像するほうが容易い。」という言葉が重い。経済とCO2消費を比例させないデカップリングが求められているが、不都合を経済の外縁部に押しやるオランダの誤謬にも注意を払いたい。現在の自然科学は無償の自然力を搾取・浪費するものであって自然科学が資本主義の富の生産性指標だけに寄与するなら、それは「合理的」ではない。大地である地球をコモンとして持続可能に管理できる合理性を求めるべきだ。資本主義の理論からは、自然の私財化によって減る公富は希少性の増大と私財の増大につながりGDPの増加という連鎖を呼んでいる。つまり、GDPの増加は公富の減少を前提にしていうということを意味している。

資本主義的合理性を押し付けてくる米式のコンサルタントや啓発本みたいなものから「日本株式会社」にあった労働の潤沢さを、合理化という労働力の間引きの結果として希少性に追い込まれて、労働そのものが競争になってしまっている。また、電力会社、日本電々、郵政公社国鉄、高速道路などを非効率な公共事業として、「公正な競争」などというお題目で民営化して公的事業を利益収奪事業にしていったのは、政権に蔓延っている口入屋みたいな人材派遣会社の親分が構造改革だなんて言ったことだ。結果として社会の労働環境も同時に資本市場に解放され就職氷河期と労働搾取の派遣市場、最近では就活市場なんていう暗黒世界への道のりが出来上がってしまった。

そこでしめされるのが「ラディカルな潤沢さ」という理論だ。水や太陽は奪い合わない程度に潤沢であるがゆえに資本主義的な価値は少ない。資本主義は根源的に希少性を作り出して競争させる政策をとっている。ここでの論論はその希少性を否定し希少性を競い合う成長を否定する。本書ではロシアのミールやゲルマン共同体という共同体(コモンズ)が紹介されているが、1980年代から度々起こる「日本鎖国論」は辺境を求めず国内産業の均衡と価格優位でない交易を目指す優れた考えであることが思い起こされる。そもそも、昔の武家の仕事はコモンズであり、水を管理し自然を穏やかに使い安全を守る役割で、その時代の労働者は謀反や逃散で領主の治世に対抗していた。非効率だから競争しろという「公正な競争」なんていう知ったようなことをいう経済学者たちは、これまでの「合理的な個人による市場形成」「神の手」なんていう思いあがったモデルが資本主義なんて言う化け物を生み育てたということを認識すべきだ。生産性を上げていくときの分子となる生産は資本の言うところの生産ではなく自然消費を含めた系全体の持続可能性を加算した生産になるべきであって、生産性を上げていくのはあくまでも労働の成果であって、労働そのものがコモンであるならその成果も環境に帰属する。それは労働の喜びの集積であるという。

本書の最後に示されるのは、マルクス資本論に隠された5つの真の構想である。「使用価値経済への転換」「労働時間の短縮」「画一的な分業の廃止」「生産過程の民主化」「エッセンシャルワークの重視」詳しくは本書を最後まで読んでいただきたい。

過去の関連ブログ
https://sociotechnical.hatenablog.com/entry/2020/04/30/153746  
https://sociotechnical.hatenablog.com/entry/2017/05/12/144747

IT産業では効率化を求めて非常に厳しい分業が行われている。ネットワークはネットワーク専門家、データベースはDB基盤とDB設計、サーバー、OS、ミドルウェアというようにスキル別分業が行われている。専門知識を深化させること、同じことを繰り返すことで習熟することで確実に利益を事前に確定させることが求められている。しかし、エンジニアリングという労働の喜びは同じことを繰り返す作業効率の向上だけでは得られない。エンジニアリングという労働の創造性という喜びは新たな領域や新たなニーズによって生まれている。エンジニアの成長は、分業による作業だけでは得られず研究や探求という自由が必要なのだ(Googleの20%ルールやIBM AoT/TEC-Jは非常に優れた考えだ)。スキル別組織の限界は現在のIT産業の直面する深刻な課題だ。

 

映画ブレードランナーの胡蝶の夢は、ゲーデルの不思議の輪

マルクス・ガブリエル 危機の時代を語る (NHK出版新書 635)
新書 – 2020/9/10
丸山 俊一 (著), NHK 「欲望の時代の哲学」制作班 (著) 

急激に変化する価値観の中で普遍でなどいられない。

アメリカンフリーダムなんて、相変わらず「自由を強いる」ことで世界を支配しようとしている。国を爆撃することで人々に自由を与えるなんて、自由を強制している。グローバリズム経済とセットになった自由の押し売りは、実際は資本主義の使徒となっているだけなのに。それに、爆撃されたのはガブリエルが言うような国ではなくて、原爆や焼夷弾に焼かれた民衆だったと思う。古くから民衆はあまりに強い抑圧からは「逃散」してしまう。それが最も強い体制への抵抗なのだと思う。民なき国家、国家なき民、それがアメリカ式への世界からの答えなのかもしれない。

ソーシャルディスタンスによって形成されつつあるリモートコミュニケーションを仮想的だと否定する元に戻りたい人たちがいるけれど、その空間に新しい関係性と価値が生まれると考えたい。なぜなら、仮想化(Virtualize)とは空虚な空想空間のことを意味するのではなくソフトウェアによってその実体を実現しようとする実体化なのだということを、技術者は知っているからだ(還元主義的だけど)。国や民族は数学的には集合のようなもので、たとえば同じ場所に近接しているという属性がなくても日本人は日本人だし華僑は中国人だ。

 

繰り返し述べられるのが還元主義的な知性の二元論への反論だ(そこは同意)。

二元論は脳細胞の物理的な動きが人の意識を動かしているという、非常にアメリカ的な唯物論的な考え。マトリックスの中で食される肉は、栄養素と精神への刺激だけのものだという還元主義的な構造で意識を捉えることはできない。なぜなら、その肉にも野山で生まれ育った記憶が宿っているものなのだ。意識の問題を、意識について考えている脳という問題にすることで解こうとするのは、問題の重層的な形式的体系の構造をモデル化する考えのようだ。論理式を数として取り扱うというゲーデル不完全性定理のような抽象度の高い領域で決定性を問うアプローチだけれど、すでに「ゲーデルエッシャー・バッハ」で人の意識の螺旋について、別方向から議論されている問題だ。人はマクルーハン的な知覚、記憶の拡張があって重層的に知性を有していると思う。さらに、ヘーゲルの言う「人には精神のつながりがある」のであれば、インターネットが作り出す情報圏が、インフォスフィアなんていう人をからめとり抑圧する精神圏ではないと信じたい。

 

科学技術と人類の未来はもっと明るくなくちゃいけない。

デジタル技術の発展が人類の現在と未来に悪をなしていると繰り返し述べるマルクス・ガブリエル。科学技術と資本主義を、快楽を覚えたサルのように描く彼に対して、テレビは画素数よりもリビングでの家具的佇まいに価値を移しているし、車もこれまでの機械としての価値よりも社会の中における適した位置に移していくような知恵があるものだ、とマスビアウ(コンサルタント)は対峙する。チャン・ストーン(文化政治学)も日本のZ世代の大量生産に背を向けたクリエイティビティや中国の不連続性の連続などで個人や集団の知恵を評価する。

ガブリエルは新自由主義の終焉とは、あまたの経済学者が自分に都合の良い前提をおいた経済モデルが作り出した市場経済カニズムが実はなにも働いていない事が明らかになったことだと言う。経済モデルが数理科学のモデルであることは間違いないのだけれど、それは数学が誤っているわけでも技術が邪悪なわけでもなくて、単にそれを用いた経済学者の知力が足りていなかっただけだ。さらに最近のシリコンバレー叩きに乗じて、これまでマスメディアを規制してきた規制当局に倣ってFacebookに対する規制強化を強く述べているのだけれど、これもネットワークやメディアに関わる規制や法的枠組みを下敷きにした議論ではない。GAFAの独占を独裁と言い「啓蒙無きモダニティ」と断じるガブリエルは老子プラトン仏陀から受け継いだ善の概念ですら失敗であり、わが哲学に従えとばかりに持論を述べる。科学と技術によって作られた文明の果てがディストピアでないために哲学は必要だと思うが、美術や宗教だって大きな役割を果たしていくものだと思う。

経済は良心的な中産階級を取り戻すことができるのか

ジョセフ・E・スティグリッツ PROGRESSIVE CAPITALISM

 ~経済学のこれまでの理論は間違っているらしいですよ~

ノーベル経済学賞を受賞したスティグリッツ教授の最新作です。一貫してトランプを反知性政権としてその政策のほとんどを滅多切りにしています。まるで、アメリカの資本主義がこいつのせいで、と言わんばかりの語勢です。もちろん、スティグリッツさんなのでこれまでの歴史的な齟齬や失敗はクールに解説してるんですけど、ことトランプが登場するとなると「怒りの鉄槌」です。オバマが良かったわけではないのだけれど、政権によってここまで悪くなるとは。トランプ批判は読んでいただいたほうが実感が沸くので、それ以外のことをいくつか引用しながら、解説しますね。どうも経済学のこれまでの理論は間違っているらしいですよ。利己的で実利的な存在は経済活動の主体なんかじゃなくて、単なる強欲な詐欺師だと。

 

「標準的な経済学の教科書を見ると、競争の重要性が強調されている。なるべく低いコストで良い製品やサービスを提供しようとする無数の企業が容赦なくイノベーション競争を展開してきた。」しかし、「経済のトリクルダウンなど嘘だ。不動産業界や金融業界に支配されたそのほかの産業では一部の裕福な経営者だけが豊かになり、労働者にはなにも分配されてこなかった。」

→不公平な税制やタックスヘイブンによる租税回避など、強欲な詐欺的なことができる側と搾取されるだけ搾取される労働者というような、公平性の概念を欠いた制度が生まれる現象はアダムスミスの神の手なんていうのは倫理の天秤などを持ってはいないということでしょうか。アダムスミスはその両面があると主張したらしいですけど経済学の神様ですら強欲にはかなわないんですかね。

 

「製造部門のグローバル化は労働力のグローバルな競争を引き起こし、国内においても労働者は低い賃金に甘んじなくてはならない。だから会社は労働組合を嫌う。労働組合の弱体化は労働者と経営者の溝を深くしてきた。」

→これは共産主義が手ひどく崩壊してしまったことの反射的な影響なのだけれど、金融資本主義に染まった経営者が労働者を搾取する格好の論理となったのでしょう。労働者が生産性の高い高い給与の仕事に就くためには、教育が必要なことは言うまでもないのだけれど、教育が荒廃し形式主義に染まって効果を上げないなら、労働者が豊かになることはない。これは、日本でも同じだと思います。

 

「現代の金融資本主義社会ではごく少数の企業が利益を独占し支配的な地位を維持し、現代の金融制度は強欲な金持ちによる略奪的・詐欺的慣行によって社会を破壊してきた。」

→一体、だれが経済学でいうところの「利己的で実利的な存在としての人間」なんていう単純化したモデルを論理的に正しいとしてしまったのだろう。そんな単純なモデルで評価された「会計の数字」だけが正しさの結果だというような貧しい精神の持ち主が資本主義の勝者なのだ。スティグリッツは本来の人間は社会的存在であり、社会的な共通資本である文化やコミュニティを大切にし、搾取や詐欺を嫌い、利他的で集団を活かすものだったはずなのにと嘆いています。

 

最後にスティグリッツは言います。「まともな生活を送るために必要なことはわずかしかない。公正な報酬、生涯の保障、子供の教育、住宅の所有、負担にならない医療と言ったことだけだ。」彼は、こうしたことを行政や規制という「利益に無頓着な」存在によって実現するべきだと主張します。保険や給付というようなことを実行する民間の利益団体が手数料や金利を課すことで企業が多くの人たちを搾取するようなしくみではなく。

IBM Distinguished Engineerだったもの(いわゆる退職エントリー)

IBM Distinguished Engineerだったもの(いわゆる退職エントリー)

私事ですが、33年勤務したIBMを退職することにしました。2007年にエンジニアの最高職のIBM Distinguished Engineerに指名され最高の栄誉をいただいたこの会社に対して、深く深く感謝させてください。本当にありがとうございました。私のテクニカルキャリアは順調満帆だったわけではないですが、多くの素晴らしい仲間に恵まれてとても充実した技術者半生を送らせていただくことができました。

 

着任以来先輩たちはずっと私に指導をしませんでした。だから、私は自分で考えて動かさせてもらえました。自分で学んで考えたことは自分で責任をもってやり遂げるしかない、これが先輩たちの教えだったと思います。部門や個人の目標数字や与えられた職責というようなKPIベースのノルマではなく、考えるチームは非常に強いと実感しています。KPIの追及は業務効率は良いのですが、変化に弱いしモラルも下がってしまいます。また、KPIさえ達成すればよい、あるいは営業の数字のためには正しくない行動でもいい、という誤ったメッセージになってしまいます。KPIの達成は会社の価値(バリュープロポジション)を追求し、お客様と社会に迎え入れられた結果であるべきです。そういう意味で、考えるチームは素晴らしいパフォーマンスを残せると思います。

 

技術的にも非常に素晴らしい環境を提供していただきました。常に新しい技術やアプリケーションにチャレンジさせていただく、理解のあるお客様に囲まれて技術の正常進化を見続けることができました。アプリケーションの時代からオープンシステム、インターネット、ネットワークサービス、クラウドコンピューティングと幅広い経験を最先端で学び続けることができたのは人生にとって非常に豊かな時間でした。会社は求める数字ができるからと言って安易なシステム設計やお客様のためにならない提案を決して強制することはなく、不確実性の高いIT業界において最善のサービスを提供できる環境を整えていました。私のチームは最高のチームだったと誇らしく思います。

 

会社の中には20%ルールのように有名ではありませんが、業務外の技術分野であってもエンジニアが自由に技術や社会について研究、ディスカッションする場がありました。テクニカルコミュニティーという文化です。自由な研究の場が与えられていることで、チームは幅広い多様性を維持することができ、組織は変化に対応する柔軟性を内包することができます。米国本社を含め、IBMの経営者はテクニカルコミュニティーを信頼し経営課題を諮問しては、私たちの答申を真摯に実行してきました。企業の経営と社会にインパクトを与えるエンジニアリングを実践する場であったと思います。いかに目前の数字に影響があろうともテクニカルコミュニティーの警告や進言を無視しない企業経営者は非常に立派なものだと思いました。世界中に広がる技術者集団を「仲間」として共に切磋琢磨したテクニカルコミュニティーの時間は惜別の思いです。

 

多くの皆さんに支えられ、また応援していただいて定年退職を迎えることができて本当に幸せです。退職後は個人事務所で業務を開始いたします。これまで同様、システム分析設計、レポート作成、原稿、セミナー勉強会、プロジェクト支援等、皆様には変わらぬお付き合いをいただきたく、お願い申し上げます。

 

山下技術開発事務所 合同会社

YAMASHITA Technology & Engineering Office LLC.

代表 山下克司

IBM Japan - HQ