イノベーションの風に吹かれて

山下技術開発事務所 (YAMASHITA Technology & Engineering Office, LLC)

人類の知性の進化はニュータイプがリードするのでしょうか

安藤 寿康「能力はどのように遺伝するのか  生まれつきと努力のあいだ」
近年日本にも若く国際的に際立った才能が生まれているが、それは生まれついた才能なのか育った環境から来るものなのか。食生活の西洋化によって身体的なハンディキャップが小さくなりつつあることや、科学的な練習や人工知能との訓練などの環境的な背景によって、これまでの常識を打ち破る才能が生まれてきています。しかし、だれもが大谷選手のように練習をしたら大谷選手のようになれるのか、藤井聡太さんの訓練の方法を真似たらあらゆる最年少記録を破れるものなのか、また井上尚弥選手のように並みいる強豪を打ち倒すことができるものなのでしょうか。本書は「生来もっている遺伝的な素質」と「環境的に育てられた才能」の関係を解き明かすものです。生来持っている素質の設計図である遺伝子の配列に関していうと、ヒトの遺伝子の99パーセントは同一であって、それは種としてのヒトを示しているに過ぎません。そして残りたった1%だけが個人個人の個性を示すものですが、才能の形成においてその影響は極めて平準な確率的な結果をもたらします。つまり非常の才能を示す確率は非常に少なく、また非常の愚才を示す確率も非常に少なく、大多数が平凡であるという取りつく島もない結論である。(他を圧倒するから非凡な才能なのであって、それを確率的には正規分布の棄却域というのだから当たり前のことだ、というのはそのとおりだが、本書はちゃんとした論拠をあげて論じているのでそういった浅はかな論破は試みない方がよい)

問題は能力獲得の出発点として「特定の目標に狙いを定め、長期にわたる長時間の訓練を行う」ところに遺伝的な個人差が関与しているということです。人生においてどんな目標に出会い照準を合わせることができるか、長時間の思慮深い訓練を苦労をものともせず持続できるだけの対象と状況が得られるか(気づけるか)、そこには遺伝的な個人差が影響してくるといいます。確率的に棄却域に近いごく少数の優れた才能が、その個人が持っている好奇心の鋭い方向性と深い探究心によって他を圧倒することになるのです。非常に狭いメジャーリーグの世界で東洋の島国からやってきた宇宙人のような大谷選手は、日本の野球界でもそうだったように現代野球において二刀流への挑戦という常識の外側に飛び出したファーストペンギンであり、米国選手の模倣ではない新しい才能の形を見せるニュータイプなのです。

J・D・バナール「宇宙・肉体・悪魔〜理性的精神の敵について」

才能と同様に未来の人類の進化も「願望の未来」と「宿命の未来」の二つがある、という書き出しで始まるのが70年代に書かれた「市場最も偉大な科学予想の試み(アーサー・C・クラーク)」と称されるJ・D・バナールの「宇宙・肉体・悪魔〜理性的精神の敵について」です。人類の進化は三つの敵との戦いでした。一つは自然界の巨大な非生物学的な力(暑さや寒さ、天変地異、エネルギーなど)、二つ目は動物や植物および人間自身の体(疾病や健康)、最後が人間の願望と恐怖です。そしてそのそれぞれを宇宙・肉体・悪魔として人間の進化を予測しようという試みが語られます。宇宙と肉体のパートでは、人類の宇宙への拡散と知性が身体性をどのように克服していくかについて簡潔に語られます。身体性を克服(体から知性が独立)し、充分に発展し切った人類は子孫の繁栄や身体の健康などの課題を克服してしまいます。ただひたすらに知の発展を求める存在となった人類は、結果的にひとつのゆらぎの中に収束して、安定的に振動的な生存を続け昆虫のような規律正しい生活の永遠を享受するようになると本書では予想しています。機械の知能がシンギュラリティの爆発的な進化を遂げた時、身体性の欠如から同じ様に昆虫のような安定的な存在になってしまうのかもしれません。

注目すべきは悪魔(人類の願望と恐怖)との戦いです。極端で予想し難い鋭い進化の方向性の理解を妨げる心理的抑制は、一つは専門に分化している知識のサイロであって、農耕に端を発した分業の罠です。自身の専門分野の狭い了見では常識の外側に飛び出したファーストペンギンの才能を理解することを拒んでしまいます。もう一つは機械化・高度化するものへの憎悪です。ヒトの営みや尊厳を奪ってしまうかもしれない高度な機械文明への恐れが進化を妨げています。近年の大規模言語モデルでは事実に反した回答をするハルシネーションが問題になっています。従来のエンジニアリングでは、抑制的な恐れから事実に反したシステムをローンチすることはありませんでしたが、新世代の科学者は事実に反する部分があろうと大規模言語モデルの発展のためには必要であると判断したらいい加減な回答をする質問応答システムであってもローンチしてしまいます。悪魔に心を売って、進化に対する心理的抑制をほんのちょっとだけ捨てるだけでこれだけの大きな発展がこの世にもたらされたのは、とても興味深いと感じます。科学者は常に社会のために役立つ技術を開発しようと考えていながらも、科学者の好奇心と探究心は彼らの人間性よりもより強力です。そして科学が支配的になることで、これまでの科学者の托鉢僧的な地位を終わらせます。このように後に支配層となるようなニュータイプは、従来の階層から生まれるのではなく、科学の成果として自らを改造したり宇宙に出て行こうとしたりするファーストペンギンの中から生まれます。一方で進化は、あまりに愚かで頑固なために変化を受け入れない人々を比較的原始的な状態に置き去りにすることで文明は二分化していくことが予想されます。

J・D・バナール 宇宙・肉体・悪魔――理性的精神の敵について

「chatGPTの頭の中」と文学全集

MethematicaやWolfarm|Alphaの開発企業のCEO Steven Wolfarm氏のchatGPTの動作原理解説です。彼は映画「メッセージ」にも関わっていて言語の法則について深い洞察を与えてくれます。内容としては以前開催したセミナーで語らせていただいた動作原理と合致していて安心しました。私は時間概念にフォーカスして動作原理を追求しましたが、Wolfarm氏は言語と論理の法則性についてフォーカスしています。それはとても良い議論であると思います。軽い本なのでサクッと読めます。おすすめ。

This is an explanation of the working principles of chatGPT by Steven Wolfarm, CEO of the company that developed Methematica and Wolfarm|Alpha. He is also involved in the movie "The Message" and gives a deep insight into the laws of language. I was relieved to see that the content of this book was consistent with the principles of operation that I had discussed at a previous seminar I held. I pursued the operating principles by focusing on the concept of time, while Wolfarm focuses on the laws of language and logic. I think that is a very good discussion. It is a light book and a quick read. Recommended.

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オノマトペの歌「ぷかぷか」

今井 むつみ, 秋田 喜美 著「言語の本質-ことばはどう生まれ、進化したか」 (中公新書 2756) 新書 – 2023/5/24

「オレのあの娘はタバコが好きでいつもぷかぷか、ぷかぁ〜」私の十八番は西岡恭蔵の名曲「ぷかぷか」オノマトペの歌だ。

犬は本当は何と鳴くのだろうか。ワンワンもバウワウも本当の犬の鳴き声とは似ても似つかないアイコン化されたオノマトペだ。しかし、ワンワンと言われると犬が鳴いているあるいは犬そのものを思い浮かべることができる、確実な意味ベクトルが獲得できている。本当の鳴き声とは異なるアイコニックな表現はオノマトペの超越性、つまりイマココにはないものの意味を直接ではなく抽象化して表現することで表している。

言葉の持つ抽象化された意味とはなんだろう。英語のAbstractと日本との抽象化には決定的な違いがあると思う。どちらも意味を現実から引き離し還元主義的にパラメタライズした構成要素ではあるのだけれど、日本語の抽象化は具象を捨象してしまって表層を捉えたものであるのに対してAbstractionは現実をDrawoffしたうえでその全ての要素を表現できる還元主義的なパラメーター化を目指している。抽象化されたアイコンである言葉が記号接地(シンボルグラウンディング)するためには捨象された現実の感覚を拾い集め、ありうる組み合わせの中から選択していくプロセスが必要になっている。これはアテンションメカニズムにおけるトランスフォーマー類似性を拾い集める作業に非常に近い。

人が言葉を紡ぐ様子を本書では「言葉を使う時、脳はピンポイントで想起したい単語を一つだけ想起するわけではない。同じ概念領域に属する似た単語や似た音を持つ言葉が一斉に活性化され、活性化された単語たちの間で競争が起こり、生き残った言葉が最終的に意識に上がって想起される」と解説している。似通った意味ベクトルの中から確率的に一つの単語を選択しているというRNN以降のEncoder Decoderモデルの動作が人間の言葉の選択と非常に近いところが面白い。類似性や一緒に使われがちであるなどが確率の手がかりとなっているのだが、LLMのアテンションメカニズムは同様の処理をベクトルの内積による類似度の計算から求めているという点も興味深い共通点だ。本書において人類の言語習得において重要な位置付けをなしているのがAbduction推論で、規則性から事象を推論する(ある意味で非論理的で誤りを犯しやすい)能力である。トランスフォーマーのベクトル演算には類似計算以外の論理性はないように思えるが、そもそも誤りやすい能力(から発する文章)を学習しているのだからある程度の誤りは仕方ないのかもしれない。

手語などの発展経路において語の意味を要素に分割して構成化することで多様な表現を簡易に可能にする例が示されている。自然言語処理におけるトークナイゼーションが入力を要素ごとに分割しているのはこうした言語の構成を意味として獲得する第一歩だったのか。一方で人類は意味のわからない記号列を学習して言語は得られないことが示されているが自然言語処理における単語あるいはトークンはワンホットベクトルという意味を一切持たない純粋記号にすることで機械処理ができるようになっているのは対照的だ。本書においても音と意味の繋がりがない方が情報処理がしやすい、という指摘もある。

意味のマルチモダリティにおいて、音や口の形、ジェスチャーというような身体性のあるモードや環境音や言語音というようなより感覚的なモードの重層的な意味の重なりがある。大規模言語モデルによる意味の獲得において複数の言葉が類似性や近接性をきっかけにして学習を進めていることが理解できる。人類が大規模言語モデルと異なる点は人類は単一の環境における言語によって高度な能力を獲得できるが、LLMは複数の言語(多くの場合基準とした大量の英語とその他の比較的少量の言語)によってマルチモダリティを形成している点だと思う。その違いがLLMと人類の仮説形成における違いを表しているのではないだろうか。意味のマルチモダリティと対象的に単語が多義であることから、誤用が見られる。本書では紙を切る、電源を切る、議論を切るなどの多義語について「ある単語の意味を覚えると、その意味と違う意味でその単語が用いられる分を読んだ時、文の意味に合わせて単語の意味を考えるより知っている意味に合わせて誤って(自分勝手に)文の意味を考えてしまうのだ。」と述べている(オノマトペはその誤用を修正し、文の意味に合わせて語の意味を変化させることを習得する高い能力がある)。

言葉の全てが身体に繋がっているか、という課題について第三章では貴重な議論が交わされている。本書においてモダリティの一部としての身体性は経験的なものとして語られているが、以前「知性のアーキテクチャ」で扱ったアンディ・クラークの「Being There」などでは身体性は境界性=自分と自分の外の認識であると考えられてきた。人は数を数えるというような高度で複雑な作業に自分の指を折りながら、それを見ることで数を数えるという知恵を持っている。自分の動作の結果を一旦自分の外から視覚によって知覚しなおすことで複雑な作業を行って数の概念と視覚による知覚というマルチモダリティを獲得している。知性の身体性と言葉の関係は深く、ロボットアームとカメラによってそんな身体性を再現できるのか、今後の研究の進展が非常に興味深い。

「日本は物騒になったなあ」

政治的あるいは宗教的な集団による暴力行為、極左による凄惨なリンチまたはテロ・ハイジャック事件はオウム真理教による地下鉄サリン事件があってから下火になったように思えます。過激な思想の運動家が歳をとるにつれて次々逮捕収監されていったように思います。その後、神戸児童連続殺傷事件、秋葉原通り魔事件などの「自分ごと」といえる事件が頻発し、京アニや大阪クリニックへのガソリン放火へと繋がっていく様子が見られました。安倍元首相殺害事件や岸田首相殺害未遂事件にも政治的主張というよりは「自分ごと」の身勝手さが垣間見られました。

日本では銃刀法が厳しく施行されており、街中で武器を見ることも軍隊が街を警備していることもありません。人々は総じて穏やかで安心して暮らしています。しかし、車、ガソリン、包丁、水道管、肥料といった普通の道具や材料が武器として利用されることがあり、人々の安心の隙間で思いもよらない事件を引き起こすことができてしまいます。社会のざらついてささくれ立った緊張感が高まっているのを感じます。

あるブログ記事によると、成長期において自分と社会の間の調和が取れない場合、自分ごとの問題をどのように処理して自分の精神を整えるかについて学ぶ機会が欠けているということです。それは社会が変わらなすぎることに対する政治的暴力ということだけではなく、自分ごとを処理する訓練の不足も一因だと考えられます。学校ではあくまでも「普通」というユニフォームに嵌められ、少しでも外れると学校からだけではなく周囲からもいじめという形での私刑が加えられることがあります。これは、いにしえの村八分のようです。自分が感じたことや経験したことを自分なりに処理することは、社会的に許されていないように感じます。根拠もないどこかの謎マナー講師のような不思議なルールやマナーにがんじがらめになってしまって「変わった奴」がどこにもいないように感じる。

東京一極に人が過密に集中してしまっていることで、社会常識の最大公約数がどんどん小さくなって、その小さな社会常識が日本全体に影響を与えているのではないでしょうか。少しだけ偏執狂的なマナー講師の不寛容さを捨てて、社会と自分ごとの調整のために柔軟な姿勢をとるべきではないでしょうか。校則なんて変えればいいし、なんならない方がいい。人は他人で自分は自分でそれぞれが勝手に生きるものでいいでしょう。ブラウン運動みたいなその勝手さを小さい容量に閉じ込めすぎると過熱して爆発してしまう。ルールやマナーは個々人が自分自身で考え、本質的な部分を理解できるようにしてほしいとおもう。

 

(年寄りが昔を懐かしむ)

私の同級生には私を含め変な奴がたくさんいた。誰とも話さずに本ばかり読んでる私、いつでも何かの工作に夢中になっている馬島くん、ただひたすらにバイクに乗っていた田島くん、いつでも歌っている奴もいた(たまにうるさいって怒られてたけど)。そこでは普通を強要する教育はなかった。入学式校長訓示で「長野工業高等専門学校は教育を与える場ではなく自ら学ぶための環境なのだ(生活指導はしない)」という自由さがあった。中学を首席で卒業したようなエリートが集まっていきなりスペクタクルな人生にぶっ込まれるので紆余曲折する人もいてストレートに5年で卒業できる人は限られていたが総じて勤勉な社会人になっていったように思う。

賃上げしようよ

来季のご依頼をいただきつつありますが、これが書けない気持ちがわかる・・・「諸経費高騰の折、お取り引き価格についてプラス15%ほどの価格調整をお願いいたしたく存じます。」

春闘の季節となり、日本の製造業のサプライチェーンを支えている中小企業において賃上げが進まないというニュースがあちらこちらで流されています。原価高騰による価格交渉では材料の仕入れについてはある程度の理解が得られるものの、電気代や人件費については原価としては認められず我慢を強いられているようです。製品力を強化することができれば良いだろうがそうでなければ「親会社から付き合いを止められる、競合に取引が移ってしまう」という恐怖から経営者は人件費を転嫁することができず人件費は逆に圧縮する対象となっています。そもそも古い日本の製造業の発注側では原価は材料+加工機械の減価償却で残りを粗利として、下請けはそこから企業努力で人件費を支払うような考えになっている。本来管理会計としては、人件費を製品原価として考えるということで、人的資源を企業活動の重要な資源として位置付けることになっていると思う。極論するなら、工場従業員の給与を上げて競合の従業員をこちらに引きつければ取引を独占できて価格支配力を得ることができるというストーリーも成り立ち、逆に人件費を圧縮したら貴重な人材を競合に引き抜かれてしまうというリスクとして捉えることが大事になります。(きれいごとだよな)

DAOを学習する前に読む本

DAO(非中央集権的な組織)を学習するというプロジェクトが立ちあがろうとしているので、ブロックチェーンビットコイン、スマートコントラクトなどの技術領域ではないところを知識として押さえておきたいということで読んだ本のリストを示します。

政府やインターネットジャイアントに押し付けられた意思決定ではない民主的意思決定とは一体なんなのか?多数決が本当の民主的な意思決定ではありえないことは多くの人が気づいている。インターネットの言論空間は意図的に捻じ曲げられて歪み、荒廃した人々の心につけ込む政治家に利用され、貪欲な経済独占が引き起こされている。民主主義的な社会が衰退するにつれて、中国やロシアが勢力を拡大して隣国への侵略戦争が罷り通っている。技術が社会に及ぼしている影響を明らかにしながら、民主的な意思決定とは一体どういうことなのか、民主的な経済活動が危険な投機によって破壊されない楔は見つけられるのかという点を議論していきたい。

働く悩みは「経済学」で答えが見つかる〜毎日しんどいのは資本主義のせいですか?

本書の「経済学」は、働くことのしんどさをあらわに突きつけてきます。働く能力も知恵も社会における繋がりも社会的価値も見栄と虚構であり、資本主義の成功者はろくでなしの無能な老人で、デジタル技術は社会に害をもたらしていると。テクノロジー社会を作る一員であった私にはこのような客観的な現代批判を受け止めることはできず、かなり「しんどい」ものだった。

 

大量生産時代に作られた分業の罠は、機能的な分業の専門性の追求がサプライチェーンのコスト効率に組み込まれ、労働の対価の視点より市場の価格競争(価格調整)によって価格が引き下げられてしまうことです。また、こうした企業では分業の専門性というタコツボ的な組織内の知識の活用や伝承が求められるので、従業員はその企業の中でしか通用しない知識しか持ち得なくなってしまいます。企業は転職者を一から教育しなければならないし、転職者は経験が蓄積されないので転職ごとに収入が減少してしまいます。これでは就職が人生に一回かぎりの博打になってしまうし、自らの位置を見いだせなければ働くことはかなりしんどかろうと思います。

自らの知恵や能力を事業に活かし、対価に見合った労働とその成果の社会的な価値を見出して働いてきたと思っているのですが「社会のために事業を行っているという人が、実際に社会の役に立っているという話は、未だかつて聞いたことがありません」と切り捨てられてしまいました。また、リンゴが美味しいという価値よりも市場での価格だけが意味を持つような社会になっているのはリンゴを育てるのがまるで金のためだけの努力だという視点でしかなくて、リンゴ農園で働くことは地域の保全や景観の一部という郷土に対する価値があって働く意味の一部をもたらしているものでもあります。そういう意味では、働くことがしんどいのは他人の働く意味への無理解だということも感じます。

共感は能力であり他人と共感することで倫理や道徳が生まれます。しかし、道徳と経済は一致することなく「成功も昇進も無知で高慢で自惚れた上位の者のきまぐれで愚かな行為に委ねられてしまう」と言われてしまいました(現実の社会ではそんなことばかりではないですけどね)。企業のSDGsへの取り組みもエシカル消費に心がける消費者も実は周囲からの評判という見栄を張っているだけで本当の倫理ではないと指摘されます。だれもが都会を離れ自然の中で健康に鍛え上げられていくような環境を得られるわけではないという世の中で、なけなしの時間をやりくりして身体を鍛え自分の体との対話をする健やかさという視点を持たないで、単に「自然じゃないから」という二項対立でランニングマシーンを否定してしまうのは、どうもしっくりこないものです。

「経済学」からのデジタル技術への批判は痛烈です。デジタル技術の活用による恩恵が一部の人に偏っているし、ビッグデータ解析のように市場の動静がつぶさに見えるようになることで協力よりも競争のほうがより強い動機につながっていて、そして究極的には「インターネットに関わることでかなりの葛藤が拡大している」と言わせています。たしかにSNS疲れやトラッキング広告なんていうのはやり過ぎている面はあると思いますが、インターネットが社会にもたらしてきた知識の繋がりや価値流通の媒介などの歴史的な価値を損ねるものではないと思います。

最後に、資本主義の拡大すべき市場は狩り尽くされていて、のこされたグリーンフィールドは非常に少ないと指摘します。グリーンフィールドは他の競争者が居ない、つまり強欲に独占できる市場で、イノベーションを次々と生み出していく必要にかられています。そんな次世代技術にWEB3とか言って政府や行政までもが血道をあげているのは滑稽なことです。WEB3やDAOのギャンブル的なバブルの価値変動なんかも「経済学」でヤバいものだと解明しておいてほしいものです。