イノベーションの風に吹かれて

山下技術開発事務所 (YAMASHITA Technology & Engineering Office, LLC)

映画ブレードランナーの胡蝶の夢は、ゲーデルの不思議の輪

マルクス・ガブリエル 危機の時代を語る (NHK出版新書 635)
新書 – 2020/9/10
丸山 俊一 (著), NHK 「欲望の時代の哲学」制作班 (著) 

急激に変化する価値観の中で普遍でなどいられない。

アメリカンフリーダムなんて、相変わらず「自由を強いる」ことで世界を支配しようとしている。国を爆撃することで人々に自由を与えるなんて、自由を強制している。グローバリズム経済とセットになった自由の押し売りは、実際は資本主義の使徒となっているだけなのに。それに、爆撃されたのはガブリエルが言うような国ではなくて、原爆や焼夷弾に焼かれた民衆だったと思う。古くから民衆はあまりに強い抑圧からは「逃散」してしまう。それが最も強い体制への抵抗なのだと思う。民なき国家、国家なき民、それがアメリカ式への世界からの答えなのかもしれない。

ソーシャルディスタンスによって形成されつつあるリモートコミュニケーションを仮想的だと否定する元に戻りたい人たちがいるけれど、その空間に新しい関係性と価値が生まれると考えたい。なぜなら、仮想化(Virtualize)とは空虚な空想空間のことを意味するのではなくソフトウェアによってその実体を実現しようとする実体化なのだということを、技術者は知っているからだ(還元主義的だけど)。国や民族は数学的には集合のようなもので、たとえば同じ場所に近接しているという属性がなくても日本人は日本人だし華僑は中国人だ。

 

繰り返し述べられるのが還元主義的な知性の二元論への反論だ(そこは同意)。

二元論は脳細胞の物理的な動きが人の意識を動かしているという、非常にアメリカ的な唯物論的な考え。マトリックスの中で食される肉は、栄養素と精神への刺激だけのものだという還元主義的な構造で意識を捉えることはできない。なぜなら、その肉にも野山で生まれ育った記憶が宿っているものなのだ。意識の問題を、意識について考えている脳という問題にすることで解こうとするのは、問題の重層的な形式的体系の構造をモデル化する考えのようだ。論理式を数として取り扱うというゲーデル不完全性定理のような抽象度の高い領域で決定性を問うアプローチだけれど、すでに「ゲーデルエッシャー・バッハ」で人の意識の螺旋について、別方向から議論されている問題だ。人はマクルーハン的な知覚、記憶の拡張があって重層的に知性を有していると思う。さらに、ヘーゲルの言う「人には精神のつながりがある」のであれば、インターネットが作り出す情報圏が、インフォスフィアなんていう人をからめとり抑圧する精神圏ではないと信じたい。

 

科学技術と人類の未来はもっと明るくなくちゃいけない。

デジタル技術の発展が人類の現在と未来に悪をなしていると繰り返し述べるマルクス・ガブリエル。科学技術と資本主義を、快楽を覚えたサルのように描く彼に対して、テレビは画素数よりもリビングでの家具的佇まいに価値を移しているし、車もこれまでの機械としての価値よりも社会の中における適した位置に移していくような知恵があるものだ、とマスビアウ(コンサルタント)は対峙する。チャン・ストーン(文化政治学)も日本のZ世代の大量生産に背を向けたクリエイティビティや中国の不連続性の連続などで個人や集団の知恵を評価する。

ガブリエルは新自由主義の終焉とは、あまたの経済学者が自分に都合の良い前提をおいた経済モデルが作り出した市場経済カニズムが実はなにも働いていない事が明らかになったことだと言う。経済モデルが数理科学のモデルであることは間違いないのだけれど、それは数学が誤っているわけでも技術が邪悪なわけでもなくて、単にそれを用いた経済学者の知力が足りていなかっただけだ。さらに最近のシリコンバレー叩きに乗じて、これまでマスメディアを規制してきた規制当局に倣ってFacebookに対する規制強化を強く述べているのだけれど、これもネットワークやメディアに関わる規制や法的枠組みを下敷きにした議論ではない。GAFAの独占を独裁と言い「啓蒙無きモダニティ」と断じるガブリエルは老子プラトン仏陀から受け継いだ善の概念ですら失敗であり、わが哲学に従えとばかりに持論を述べる。科学と技術によって作られた文明の果てがディストピアでないために哲学は必要だと思うが、美術や宗教だって大きな役割を果たしていくものだと思う。