イノベーションの風に吹かれて

山下技術開発事務所 (YAMASHITA Technology & Engineering Office, LLC)

「日本は物騒になったなあ」

政治的あるいは宗教的な集団による暴力行為、極左による凄惨なリンチまたはテロ・ハイジャック事件はオウム真理教による地下鉄サリン事件があってから下火になったように思えます。過激な思想の運動家が歳をとるにつれて次々逮捕収監されていったように思います。その後、神戸児童連続殺傷事件、秋葉原通り魔事件などの「自分ごと」といえる事件が頻発し、京アニや大阪クリニックへのガソリン放火へと繋がっていく様子が見られました。安倍元首相殺害事件や岸田首相殺害未遂事件にも政治的主張というよりは「自分ごと」の身勝手さが垣間見られました。

日本では銃刀法が厳しく施行されており、街中で武器を見ることも軍隊が街を警備していることもありません。人々は総じて穏やかで安心して暮らしています。しかし、車、ガソリン、包丁、水道管、肥料といった普通の道具や材料が武器として利用されることがあり、人々の安心の隙間で思いもよらない事件を引き起こすことができてしまいます。社会のざらついてささくれ立った緊張感が高まっているのを感じます。

あるブログ記事によると、成長期において自分と社会の間の調和が取れない場合、自分ごとの問題をどのように処理して自分の精神を整えるかについて学ぶ機会が欠けているということです。それは社会が変わらなすぎることに対する政治的暴力ということだけではなく、自分ごとを処理する訓練の不足も一因だと考えられます。学校ではあくまでも「普通」というユニフォームに嵌められ、少しでも外れると学校からだけではなく周囲からもいじめという形での私刑が加えられることがあります。これは、いにしえの村八分のようです。自分が感じたことや経験したことを自分なりに処理することは、社会的に許されていないように感じます。根拠もないどこかの謎マナー講師のような不思議なルールやマナーにがんじがらめになってしまって「変わった奴」がどこにもいないように感じる。

東京一極に人が過密に集中してしまっていることで、社会常識の最大公約数がどんどん小さくなって、その小さな社会常識が日本全体に影響を与えているのではないでしょうか。少しだけ偏執狂的なマナー講師の不寛容さを捨てて、社会と自分ごとの調整のために柔軟な姿勢をとるべきではないでしょうか。校則なんて変えればいいし、なんならない方がいい。人は他人で自分は自分でそれぞれが勝手に生きるものでいいでしょう。ブラウン運動みたいなその勝手さを小さい容量に閉じ込めすぎると過熱して爆発してしまう。ルールやマナーは個々人が自分自身で考え、本質的な部分を理解できるようにしてほしいとおもう。

 

(年寄りが昔を懐かしむ)

私の同級生には私を含め変な奴がたくさんいた。誰とも話さずに本ばかり読んでる私、いつでも何かの工作に夢中になっている馬島くん、ただひたすらにバイクに乗っていた田島くん、いつでも歌っている奴もいた(たまにうるさいって怒られてたけど)。そこでは普通を強要する教育はなかった。入学式校長訓示で「長野工業高等専門学校は教育を与える場ではなく自ら学ぶための環境なのだ(生活指導はしない)」という自由さがあった。中学を首席で卒業したようなエリートが集まっていきなりスペクタクルな人生にぶっ込まれるので紆余曲折する人もいてストレートに5年で卒業できる人は限られていたが総じて勤勉な社会人になっていったように思う。