欲望の資本主義 特別編 生き残るための倫理が問われる時(視聴メモ)
欲望の資本主義 特別編 生き残るための倫理が問われる時(視聴メモ)
https://www.nhk.jp/p/bs1sp/ts/YMKV7LM62W/episode/te/1KMZV21R6P/
<世界の不均衡>
ミノーシュ・シャフィク 元IMF理事/世界銀行副理事はワクチン不均衡を緩和するための資金援助、経済回復を加速するためのIMF特別引出権(SDR)の低所得国への拡大支給など不均衡是正の必要性を指摘する。それも、リベンジ消費からの回復を止めてしまうリスク回避。東南アジアの生産停滞や流通停滞によるサプライチェーン崩壊が製造業の息を止めてしまうリスクは顕在化している。
一方でランディ・ザッカーバーグ(マーク・ザッカーバーグの姉)は、戦後のチャーチルの「せっかくの危機を無駄にしてはいけない」とばかりに、コロナ後に回復する領域(ブロードウェイやZoomからの募金やブロックチェーンなど)に投資している。投資先はInnovationとData、競争へのPassion←貪欲さ?への投資である。
<日本国内における経済回復>
早川英男 元日銀理事はパンデミックにおける日本の意外な税収の伸びを支えているのは製造業中心の利益拡大であり、しかしそれは売上の伸びではなく販売管理費の減少(出張・交際費)が効いている。つまり、大企業は伸び、中小の飲食・観光は沈んでいく。番組でのポストコロナへの現状分析では以下の点が指摘されている。
・倒産件数:飲食、観光、インバウンドへの依存
・2020東京オリンピックが悪いのか?
・事業のM&A継承〜公的支援債務による事業のゾンビ化を避ける
・労働生産性ほとんど上がっていない
チェコスロバキア経済学者トーマス・セドラチェクは日本の高い教育、勤勉な労働者による経済発展のにもかかわらず失われた20年に突入し、先進国の中で唯一、経済成長を達成していないと指摘する。現在、日本はDEPT Driven (負債主導)の経済へと舵をきり、政府経済支援は負債の限界に挑むMMT(現代貨幣理論)に繋がっている。
<資本主義経済への規制>
ブランコ・ミラノヴィッチ NY私立大学教授は米中の技術開発への規制姿勢は同じで、独占禁止、労働者と資本家の税負担の公平などの社会的再配分方針に基づいていると指摘している。しかし、格差解消のための施策が株高への期待を呼び起こし、格差が広がるパラドックスも目立つ。チェコスロバキア経済学者トーマス・セドラチェクは競争は勝者と敗者をつくり独占は避けられないとし、競争の外側から敗者を救うセーフネットを提唱している。そこでは政府はもう機能せず、個人の道徳と業界の自主規制が頼りという心もとない環境だ。
デジタル技術の独占(無形資産:限界費用ゼロ)はタクシー運転手を敗者にする |
ブランコ・ミラノヴィッチ NY私立大学教授は共産主義滅亡後の資本主義社会は一つではなく、次のような分類ができると分析している。
・民主的なリベラル(平等化) 能力(差別化) 資本主義
・経済に影響を与える政治の力が強い、政治的資本主義
しかし、強大な監視能力を独占するテクノロジー企業とデジタルの利益配分をコントロールしたい国家という構図は相似系で、米独占禁止法による規制(リナ・カーン)と中国(共同富裕における資本規制)は同源だと指摘している。また、巨大テック企業は、法律を悪用するためのロビー活動を行うレントシーカーであって政治の行方を支配している。
こうした独占の構造の中で富める資本家の子孫は与えられ、能力主義は不平等な優位性の再生産が問題となっている。そこでミラノヴィッチは将来の資本主義の姿について、民衆資本主義(労働所得と資本所得の共存)を提唱する。労働者の資本投資促進が資本の独占を分散させることができ、またストックオプションが労働者に資本を分配する機能を果たす。セドラチェクは自身が共産国家出身であることを念頭に、保険が共助の仕組みであることから保険は自発的な共産主義であると指摘した。そして、事業における保険によってイノベーションの利益を配分することで能力に応じて働いた者がリスクに応じて収入を得られる仕組みを想像して笑顔を見せた。
盗まれた個人のセンチメントやエモーションが予測商材とする、監視的情報資本の集積により利益を生み出す監視資本主義に警鐘を鳴らすのは、ハーバード・ビジネススクール 社会心理学者ショシャナ・ズボフだ。GAFAMのデジタル企業は深く監視テクノロジーと関係していおり、その独占は「知のクーデター」によって起こっているが、違法な監視によって支えられている。巨大テック企業は責任(納税も将来も)を負わない権力をふるい、独占の利益を享受している。現代人類はまだデジタル時代の民主主義を安全に保つために必要な権利憲章や法律 制度を持っていない。ティム・バーナーズリーは個人情報保護強化ブラウザーで巨大テック企業に対抗するとしている。しかし、現代のイノベーションのほとんどがGoogle ChromeのHTML5/JavaScript/CSS3やQUIC+、FacebookやGoogleのアドテク、Amazon Web Serviceのクラウドネイティブなアプリケーション環境に支配されている現状に対抗するのは難しい。オックスフォード大のコリン・メイヤー教授によると、企業は人工知能を用い人間の知識だけではなくアルゴリズムでの競争に突入するが、その経済競争をどのように評価すべきか考える時にきていると技術の社会的受容性議論の重要性を指摘している。
<企業が生き残るための処方箋>
オックスフォード大のコリン・メイヤー教授は企業が生き残るための一つの処方箋として利益を出しながら課題を解決する〜社会善とビジネスの継続を目指す「企業が存在し続けるためのパーパス」をあげた。ミルトン・フリードマン「利益追求が企業の目的である」という資本主義の限界を迎えた時代において、株主資本主義がコストと利益の対立構造であったのに対して、コスト・ESG・利益のトライアングルは企業が社会に対峙する覚悟(目的)を訴える。企業は自ら引き起こした(労働問題、環境問題、監視問題などの)混乱の後始末にかかるコストを負担すべき(社会へのフリーライダーではいけない)。「泥棒の巣窟での競争が生み出すのは優れた泥棒である」と競争による資本主義は倫理なしには機能しないと指摘した。
<銀行は交換経済の監督官(シュンペーター)>
「鍵は正直者を正直に保つ」他人の自転車には鍵がかかっているから盗んではいけないと知ることができる〜銀行は自らの経済行動に倫理は持ち込むことができるか。
イノベーションには銀行の信用創造が欠かせない(貸付によって貨幣を作る=銀行の負債)。日独の銀行は長くスクリーニング(融資判断)とモニタリング(株式保有)の二つの機能を果たし、イノベーションを支えてきた。しかし、銀行の株式資産保有は融資という面では利益相反である(ミノーシュ・シャフィク)というグローバル経済の倫理によって役割を終えた。早川は不良債権処理が最大の関心事だった金融ビッグバンの歴史を振り返った。護送船団方式をクリーン、フェア、グローバルという掛け声で解放した金融機関だったが競争と破綻、合併なの大きな影響を引き起こし、大銀行を中心に失敗を恐れ縮む心が預金を膨らませる長期デフレという失われた20年で不安がお金の足を止めてしまったと指摘した。
セドラチェクは信用が失われた社会の不安で動かなくなるお金に対し、デジタル貨幣における金本位制(交換の手段→信用の創造)のような金融方針の変化が必要だと主張している。
早川はまた、GPIFなどの長期投資を取り扱う金融機関について、巨大金融機関は外部がないと指摘、ESGなどの競争は外部から持ち込まれESGは長期資本のコンサーンであると指摘した。金融機関がGreen企業|国家 vs. Brown企業|国家という新しい競争をどのように演出し企業に倫理の圧力を示すのか、これからも注目が必要だろう。
自分を失わずに生きるために
・14歳の自己紹介は難しい
14歳なのだから会社組織や職務経歴のような社会における相対的、経験的なものを持ち出すことはできません。私とはなんなのか、確固たる自己紹介のできる大人は稀ですし、よしんばその自己紹介があったとして聞いている相手は、はたして私を正しく理解してくれるかどうか疑問が湧いてきます。あるいは、その相対性に浮かんだ空間によって深く自分を見つめることができるのでしょうか。最近、若い人たちと話していると非常に強くコストパフォーマンスを求めていて最短経路で結果を得たい思いが強いと感じることがあります。自分が何者であるかよりも、誰からも批判されずに最も楽をして利益を得ることを優先している存在が、どのような自己紹介ができるのか考えてしまいます。
・指を折って数を数える
人間は指を折って数を数えたり、紙に計算式を書くことで難しい計算を成し遂げたりします。これは自己という存在があってその自己を認識すること(エーリッヒ・フロム)によって、自己を利用した計算を可能にしています。技術的には折られた指を目で見て認識する認知機能や紙と鉛筆を使った外部記憶ということですが、自己を認識するという機能のなかには多分に身体性を含んでいるということを示しています。私たちはある自然な身体の動作の中で計算をし、判断をする知恵=技術が与えられています。
・技術への自己嫌悪
人は蒸気機関、自動車、飛行機、コンピューター、インターネットと次々と機械を発明してきました。本書の中ではその時代時代にその機械に心を奪われてはいけないと説く先人たちの言葉が並びます。著者も繰り返しTwitterやFacebookにあふれる同調圧力に右往左往しているのは、軽薄な自己を持たぬ憐れな人々であり、技術から自分を取り戻してSNSの同調圧力から逃れるべきだといいます。人はまるで自己嫌悪のように人が作り出した機械には流されるなと繰り返してきたのだと納得します。人類の癌細胞であるかのように描かれる技術者である私は、アンチテクノロジーも同調圧力〜「GAFAや技術者って隠れてひどいことをしているらしいぜ」「だれがそんなこと言ってるのさ」「みんなだよ」〜なんじゃないのかしら、と思ってしまいます。FacebookはとうとうGAFAって名前を捨ててMETAさんになっちゃいましたけど。
・老荘思想
老荘思想は、自分とは無為自然で融通無碍な存在であるのが良いと教えてくれます。本書中盤で紹介される老子の「自分」を主張しないからこそ「自分」を持ち続けることができる、という言葉は深く共感することができます。これは一見「利口ぶって自分を主張」して謙虚な気持ちがないことのように見えますが、自分に対して「こうありたい」という主張する自分の中のデマンディングな自分のことです。人を押しのけたり傍若無人な振る舞いをするということではなく、謙虚に寡黙に自ら求めることのために努力を重ね、不断の研鑽によって自らを奮い立たせていくそんな気持ちが自分を苦しめます。自分に乗っかった自分の理想像に押しつぶされそうになって、その自分におさらばした時に「もう自分のために努力をしなくても良い」と心がとても軽くなるのです。そんなことを数年前にブログにかきました。
https://sociotechnical.hatenablog.com/entry/2017/06/16/153403
「強み」が「弱さ」になってしまう時に
敬愛する齊藤昌義さんのITソリューション塾ブログに「弱み」を「強み」と思い込んでいる残念な人たち、という記事が掲載されました。
https://blogs.itmedia.co.jp/itsolutionjuku/2021/10/post_974.html
齊藤さんは文中で、『社会学者のエズラ・ヴォーゲルが、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」を上梓したのは、1979年だ。日本はバブルの絶頂期にあり、多くの日本企業が世界の頂点でしのぎを削っていた。「失われた30年」と言われながらも、こうやって、いまの日本が世界でそれなりに評価されているのは、そんな時代の遺産に過ぎない。そして、そこで働く人たちのマインド・セットも、そんな時代を引きずっているとすれば、なんとも残念なことだ。もはや、世の中は、かつて日本が輝いた時代とは異なる競争原理で動いている。その流れに乗り移ることを考えなくてはいけない。』(引用ここまで)、と檄を飛ばしている。本当にそう思い、考察してみることにしました。 |
KEY QUESTION>
「強い」技術力を発揮して市場にイノベーティブな価値を届けたい。ソフトウェアファーストの時代だから自社の「強い」ソフトウェア開発力を市場で発揮していきたい。イノベーションを連発するソフトウェアカンパニーに憧れる日本企業の「強み」はなぜ「弱い」のだろうか。
CONCLUSION>
「強さ」の自覚は慢心と自信過剰につながる停滞の罠だ
日本ではソフトウェアといえばプログラミングだ、ソフトウェア工学だと勘違いしているので、ソフトウェアなんて書けばなんでも書けると思っているようです。現代のプログラミングの相当部分が最新のフレームワークと計算科学に基づいたライブラリーで構成されている分業体制であるということに気づいてはいないようです。アプリケーションプログラムであっても、最新のミドルウェアやデータベースが提供する並列性や分散処理を考慮に入れなければ、最新のハードウェアの性能を活かすことはできません。シングルスレッド時代のプログラミングテクニックをそのままアプリケーションに適用してもソフトウェアの最適化は行われません。プリプロセッサやJITコンパラー、アプリケーションフレームワークが最新のハードウェアを使いこなすために最大の努力をしているのだけれど、オープンソースなんて素人集団は信じられないとか、自分たちのソフトウェア工学は世界一だのと言って採用せず、自分で書いてしまう。ひどい時にはシングルスレッドのC言語のプログラムとJavaのJITコンパイラーの実行速度差とか言って(もう、こちらは聞く気もないけど)どうでもいいようなことでなにがなんでも拒否してしまう。確かにそれだけのコードボリュームを職人芸で書き切ることができるのは素晴らしい能力なのですが、その慢心がマーケットのベストオブブリードを学び本質を獲得する努力を阻んでしまっています。
あるプロジェクトでSOAに則って再利用性の高い柔軟なシステムを構築するという課題がありました。先輩のESBの世界的大家に同行して、システムを受注したシステムインテグレーターのアーキテクトとのSOA ESBの詳細打ち合わせに伺った時のことです。WEB Serviceの相互接続のためのSOAPライブラリーやWSDLのダイナミックオーケストレーションなどのミドルウェアを示しながらESBの接続プロトコルの説明を終えた後のことです。件のアーキテクトは「今回のシステムでWeb Serviceは用いない。IIOPで接続するのでESBはルーティングだけ行えば良い。あとはアプリケーションで処理をする」という。SOA以降の皆さんにわかりやすく言うと、gRPCの時代にソケットプログラミングでカスタムフレームをやり取りしたいというような前時代的な話をしているわけです、、、(BSCに逆戻りかよ)。呆れた先輩は日本人にはSOAは早すぎるんだね、といって帰国して行きました。私も現場を離れ、その後そのシステムは完成したようなので、確かにソフトウェアの生産能力は高いのだろうと思います。しかし、多分SOAが目指していた柔軟性も拡張性も得られることはなく70年代と同じくらいの安定度のシステムができあがったことだろうと思います。しかし、ハードウェアやネットワークは最新なのでトランザクションレートは高く、まるで軽自動車のシャーシにF1のエンジンを突っ込んだような運転しにくい怪物システムになっていることだろうと思います。
ロボットや自動車などのハードの世界でも同じようなことが起こっていると思います。「ソフトウェア」にも対応できているといいながら多くのプログラムがラダー型シーケンサーの世界で、ハードウェアリレーを焼き直して「小さく安く」作っているにすぎない(ソリッドステートなので安定してるのは認める)ものだったりします。最新のアーキテクチャによるソフトウェアモデルを実装するよりも手慣れたマイコンプログラミングで機能を実装できたらよいのだ、と割り切ってしまうのです。ここでも前出と同様に最新のハードウェアの並列性や多様なチップを組み合わせたSoC性能を生かしたプログラミングモデルを無視してシングルスレッドで比較した「リアルタイム性能」などが理由で進化を拒んでいる事例も多いように感じます。また、インターネットに接続され相互接続されるプログラミングの世界では、機能を超えた新しいアイデアやユーザーにとって魅力あるエクスペリエンスが求められています。さてここで、簡単に相互接続と聞き流してはいけないと思います。ネットワーク科学(ほどのことじゃないですが)では接続されるノード数のおよそ二乗の接続リンクが存在し、インターネット上の無数に存在しているノードとの相互接続にはこれまでのマイコンプログラミングとは比較にならないほどの接続リンクを取り扱わなければいけないのです。こうしたプログラミングはこれまでは経験したことのないインターネットバイデザインのアーキテクチャであって、モノを中心に設計してきたマイコンプログラミングからサイバーファーストなモダンプログラミングへの進化が見られるべきではないでしょうか。
昨今のプログラミングパラダイムの一番大きな変化は、多様性です。オープンソースプロジェクトでは(偉い人たちは素人集団といいますが)数百人からのコントリビューターが様々なアイデアや実装を試しています。これまでとの違いはその多様性で、大学でまだ学んでいるばかりの理論を持ち込む学生から、情報工学や数学のPh.Dの研究者や、彼らのコードをリファクタリングするコーディングのプロフェッショナル、テストマニアなどが一つのソフトウェアの進化を支えています。私が携わったプロジェクトでは、全体で千人以上で1つモジュールだけでも250名のエンジニアがコントリビュートしています。多くの研究段階のコードは品質的に本番には向かないことが多いのですが、オープンソースではそのコードの進化は早くて驚くべきスピードで最新理論の実装が進んでいきます。企業内で大規模プロジェクトを実行するのに集められる同質な250人のエンジニアにはないダイナミズムが生まれています。こうした事実に目を背け、これまでの「強さ」にすがっているのが今の日本のソフトウェアの実情ではないでしょうか。
RECOMMENDATION>
「強さ」を武器に。
最先端のソフトウェアはアーキテクチャ構造が重要です。スピードやコストというこれまでの価値観を、生産性や多様な処理の並列性などの新しい価値観に入れ替える勇気を持ちましょう。最先端のソフトウェアが求める本質的な価値を(従来価値と比較するのではなく)発見しましょう。アーキテクチャ構築能力を手に入れて、協働的なソフトウェア開発のための共通言語を身につけましょう。そうすることで、これまでの高品質で高性能なソフトウェアを確実に開発することのできる「強さ」をモダンなプログラミングパラダイムに活かすことができます。いままでのやり方のコストダウンや高品質という価値観を新しい若いプログラマーに教えないでください。「先輩に習うな」とは私が前職で学んだことです。先輩の方法は簡単そうに見えますが「強さ」の罠がいっぱいです。先輩の命令は無視して自分のやり方でやってよいのです(失敗もしますが、今は失敗は歓迎される傾向ですからw)。自ら研究して、先輩には(対等に)疑問をぶつけましょう。このような企業文化を醸成することが「強さ」を「弱み」にしない秘訣ではないでしょうか。
行き過ぎた資本主義、劣化した民主主義、暴走する社会主義というスケールの均衡点を「社会規範の倫理的行動」に求める純粋さ
行き過ぎた資本主義、劣化した民主主義、暴走する社会主義というスケールの均衡点を「社会規範の倫理的行動」に求める純粋さ
読書感想文
・欲望の資本主義5 格差拡大 社会の深部に亀裂が走る時
・無形資産が経済を支配する: 資本のない資本主義の正体
はじめに
コンピューターにはクロック周波数という宿命的なパラメーターがある。景気循環にも周期がありその周波数が早まっているか、あるいは従来の長い周期に高い周波数が重なり合っているらしい。経済周期のスペクトル解析に普通のフーリエ変換で通用するのだろうか。ロバート・シラーは「不道徳な見えざる手」で市場を支配しているのは「語り口:ナラティブ」という情報であるという。情報がインターネットで増幅拡散する伝わり方の変化とそれを活用する人工知能技術が運命を決める。丸山俊一さんは、アダム・スミスの経済理論で前提とした製造を中心とした分業による「神の手」は、デジタルによって変質していると指摘した。超高精細なデジタルデータがインターネットによって大量に集積され、それを強大なコンピューターパワーで分析する知力を得たら、神の手を超えるデジタルの最適化が引き起こされる。経済は統計モデルからネットワーク科学へと進化している。
法橋さんが書いている同書の解説ブログはこちら→とてもわかりやすいです。
2021 Vol. 9:『欲望の資本主義5 – 格差拡大 社会の深部に亀裂が走る時 -』 - TechnologyとIntelligenceに憧れて
ジョナサン・ハスケル「無形資産が経済を支配する」
現代の価値を生み出しているソフトウェアやサービスとは、企業業績のBSやPLに現れにくく無形資産=見えざる資産といわれる。無形資産は一度クリティカルマスを超えて成長すると限界費用(新しいサービス契約を獲得した時にかかる費用)がゼロになり指数級数的発展を期待させる。サービス時代の無形資産は従来のソフトウェア・アセットとは異なりソフトウェアそのものを販売することではなくソフトウェアによる便益だけを販売する。ソフトウェアそのものに企業の知財価値を持たせることはなく、サービスシステムにその価値を持たせている。ゆえに、多くの無形資産企業はソフトウェアを知財というよりは、協働(コラボレーション)する表現としてのコードとして捉えオープンソース戦略をとっている。こうした行動は多くのスピルオーバーをもたらして業界全体に影響を与え企業の存在を確固たるものにしている。ハスケルはGoogle Chromeの独占の様子を描いているが、技術的な側面としてHTML5のプログラミングモデルやQUIC (RFC9000)というようなインターネットの安全性に関わる規格などを提供し、Googleの広告ビジネスを支える業界全体にとって必須の技術を提供している。
オートメーションの軽すぎる税負担(ダロン・アセモグル)
オートメーション(機械投資)への課税は投資額の5%、労働力に関して労使が支払う税額は25%である。機械への労働力の移行が進み、労働生産性は高くなり投下資本に対する税額は下がるのでROEを求める経営者はオートメーション投資はやめられない。オートメーションに課税したら技術が停滞して生産性が下り、今のように課税を低く抑えていたら格差が広がっていく。機械力を活かせる人材であるかどうかが格差の決定要因になってしまう。非人間的な工場作業がすべての人生に素晴らしいわけではないのだけれど、逃れられない社会格差のなかでセーフティネットをどうするか議論が必要だ。カール・ポランニーが言うように、市場の神の手のように自然と自律分散されて最適化されていると信じているものの多くは国家の規制や政策に依存している。結果「欲望は善である」と言い放った新自由主義も多くの規制や税制の隙間を掠め取るレントシーカーが社会負担にただ乗りする荒廃を招いた。社会規範とはなにか、企業の行動に問いたくなる。
社会主義と資本主義
繰り返しとりあげられる宇沢弘文の均衡の概念において、社会経済は社会主義的行動と資本主義的な行動の間の均衡点を探るべきで、政府の役割や政治への期待を織り込んでいる。「社会主義市場経済」というナラティブを語る中国が統制強化に回帰している理由は指導者の政治的野心だけなのだろうか。経済成長は中国を民主化しないことはトランプ以後の世界が学んだことだ。香港弾圧やウィグルジェノサイドのような内政は国際経済と無縁の問題ではない。一方の民主主義も劣化している。トランプ前大統領は民主主義国家として政党間で妥協して協力するアメリカの政治規範を破壊し、Brexitのような国民投票も議会民主主義の少数意見を封殺するものだ。また、誰もが目を背けているのは、基軸通貨国家の財政は破綻するのかという部分をマスクされたナラティブだ。本書を通じて感じるのは、行き過ぎた資本主義、劣化した民主主義、そして暴走する社会主義というスケールの均衡点を「社会規範の倫理的行動」に求める純粋さをどう消化したらよいのか、ということではないだろうか。
欧州から見た日本
エマニュエル・トッドはクーリエジャポンの特集で「コロナの行動規制においてフランス人は規制を守らず家族や恋人と楽しく過ごしたいと考えている。ドイツや日本のように社会規範の厳しい国では行動規制を皆が守っている。フランスでは高齢者が多く亡くなっている一方で出生率は下がっていないが、日本やドイツでは高齢者が生き延びて出生率はみじめなほど低い。」と言った。日本の本質的な課題は人口問題である。さらに課題は階級差別ではなく性差別であり、出生率を高めるためには女性の地位を確保して子育てがペナルティにならない社会を作ることが必要だ。また、失われた20年の間リストラとコストダウンだけに明け暮れた日本人の過剰なコスト意識が家庭や子供を持つことを抑制している。
米国経済はオバマ以降トランプ時代を通じて所得の中央値が17%も向上している。平均値ではなく中央値なので格差拡大の影響というよりは貧困脱出という意味が強い。トランプは中国からの貧困の輸入を止めようとしていたが、トランプ以前からの傾向だ。アメリカが貧困から脱している合理的な理由は見つからない。経済社会のコントロールには社会的合意が必要で、一つの集団的信仰だという。トッドは欧州がイスラム嫌悪などの暴力性が社会的な結束の基礎になってしまうことを危惧している。日本は戦後宗教に関する憲法的なタブーの結果お金しか信じない無宗教人と、一方で暴力性に訴え地下鉄にサリンを撒くような集団が生まれてしまった。集団的信仰という存在が社会規範を再構築するきっかけになるだろうか。
アンドリュー・W・ロー「適応的市場仮説」
痛みの恩恵(gift of pain)は痛みに適応した進化をさす。経済活動は、従来の合理的な市場人という単純化されたモデルではなく、人間の理性や感情、国家の規制や社会の規範に適応して動くのだという。コロナ後の経済回復を予想しつつ「期待値」が市場を動かすと語ります。Gamestop株の騒動では市場参加者は利益ではない規範を求めて行動しました。これは群衆の叡智なのか暴徒の狂気なのか判然としない。インターネットの投資アプリであるRobinhoodはインターネットのネットワークスケールによる増幅を見せました。そこにはインフォデミックのリスクはあります。同質な意見しかないエコーチャンバーは群衆の叡智などではなく明らかに暴徒の狂気になりうる。
適応的社会仮説を社会ダーウィニズムと捉えると、不適合を自責の失敗とする能力主義、マイケル・サンデルのが語るような社会に植え付けられた格差、適者生存のなんでもありの市場の無秩序というリスクが指摘されている。そこには社会規範や倫理的行動が求められるとする、丸山さんの人間的な考察が光る。
バーチャルという虚無
個人の行動や精神の動きまでをデジタルデータで把握し最適化するデジタル空間のバーチャル経済に丸山俊一さんはデジタル・アパジー(虚無感)を感じるという。仮想化と訳されることの多い「バーチャル」は本来「対象物を実体化する」という意味があり、ものごとを還元主義的に再構成して実体化することを言う(だからパラメタライズされたデジタルのデータセットにバーチャルという呼称がつく)。再構築された実体に還元されない取り残された温度を感じられないから虚無感を感じる、これまでの経済理論よりもずっと緻密に実体を再現できるようになったはずなのに。帳簿程度のデータでも手書きなら実体であって、より緻密なデータセットが虚無に感じるのは、ロボットの不気味の谷と同じ技術の未熟さか。
経済は文化と社会規範の相互作用に規定される
丸山俊一プロデューサーによるNHK BSスペシャル欲望の資本主義 特別編 「コロナ2度目の春 霧の中のK字回復」視聴感想文
「経済成長の勝ち組とポスト資本主義という矛盾した二つの欲望」
ハーバード大のレベッカ・ヘンダーソンはワクチンで回復する先進諸国と発展途上国、ステイホームするホワイトカラーと失業する労働者というようにK字に格差が拡大していると指摘する。このストーリーの背景には、二つの矛盾した憧れが同居してる。一つはシュンペータの定義するテクノロジーのイノベーションによって経済の新陳代謝を高め、ゾンビ企業を退場させて社会全体が経済発展していかなくてはならないという社会の焦り。デジタル技術のスケールフリーな発展を求めるインターネットジャイアントへの憧憬だ。もう一つは、現代資本主義が限界まで育った後に老化して崩壊し、再構築されようとしていく中で、宇沢弘文の社会的共通資本というリベラルな経済理論に基づいて人の心を取り戻したいというノスタルジックな気持ちだ。
番組はヴェブレンを引き合いに、これまでの経済モデルは精緻な数学のモデルの合理的経済人(ホモエコノミクス)という心のない存在が活動するという現実にはありえないモデル(注:これは数学が悪いのではなく、経済学者が数学の使い方を誤っただけだ)だと示唆する。しかし、現在の頑なな経済人が心への関心を持つことがあるのか激しく疑問で、社会における共通財と均衡する経済というのはユートピアに見える。しかし、レベッカ・ヘンダーソンはパンデミックにおいて医療や物流などのエッセンシャルワーカーの必要性を際立たせ、このことは、将来の気候変動の前哨戦だと警鐘を鳴らす。そして、社会全体の価値観の変化を取り入れたアーキテクチュアル・イノベーションを進めるべきだという。急激に変化する環境で利己的な利益だけを追求するのではなく、本当に必要な仕事をする〜そんな競争のない安定した社会を提案する。
アーキテクチャについては、先日のブログにこう書いた。「抽象化とはある機能が果たしている動作やパラメーターを還元主義的に再構築したものである。」 https://sociotechnical.hatenablog.com/entry/2020/12/11/141352 |
「投資家の身勝手な経済成長神話は異常発達した癌細胞だ」
冷酷な経済学者は政府支援によって生きながらえている企業の中には、もはや経済的に意味を持たないゾンビ企業が存在していて、社会経済のデッドウェイトロスになっていると指摘する。そうなるといつも引き合いに出される北欧モデルのフィンランドだが、経済市場でゾンビ企業を退場させる代わりに労働市場で失業者対策を充実させるフレキシキュリティ政策を施行し注目を浴びている。日本の小幡も同様に企業を潰して人を守れと耳触りの良いことを言う。しかし、一体誰が企業の死に体を判断するのか。日米半導体競争で米国の圧力に屈した半導体産業の中で(それまで利益を独占してきた半導体メーカーは本当に死んでしまったのだけれど)燃え残りのように死に体に見えた半導体製造装置産業はいつか世界の半導体製造のマザーマシンとなっていった。
それでも日本の半導体産業は衰退圧力が強すぎて半導体製造装置においても最先端の座をオランダに譲ってしまう。それさえ失ったら日本の産業優位なんて微塵も無くなってしまうのだけれど |
中小企業を中心とした日本企業は大きく成長しなくともエッセンシャルな産業を長く維持してきたのだ。株式投資家によって無慈悲にリターンを求められ、利益水準を達成できないからといってゾンビ企業になるわけではない。こういった企業を潰すのが目的であるなら、社会の新陳代謝なんていう戯言は悪性腫瘍が暴走した癌細胞だ。
「パーセプションによるミューテーション」
名著「アダプティブ・マーケッツ(適応的市場)」を書いたアンドリュー・W・ルー MIT教授は、経済も痛みを感じることで自然に変異して進化を遂げ、痛みは何が必要か教えてくれると説く。コロナで取り残され封鎖が長引く途上国は、結局世界を小さくしてこれまで辺境を求めて拡大してきたグローバル資本主義の終焉を早めるのか。日本の経済学者小幡は、経済状況はバブル終焉であって長期的にも経済の発展そのものがバブルで、バブルは弾けるものだと皮肉めいたことをいう。ゲームストップ株で個人投資家から散々に叩かれたロビンフッドやアルケゴス破綻など、ヘッジファンドは時代の変化を鋭敏に捉える炭鉱のカナリア、ガラパゴス諸島の生き物を見るようだとルー博士は言う。ロビンフッド事件は株価が経済だけではなく主張によって動かされるという時代の流れはESG投資に向かう機関投資家の先駆けとなるのだろうか。格差を生む利益追求だけではない複眼的な社会均衡的な指標をいかに知覚することができるか。その知覚の刺激は経済の細胞に混入する異物となって、変異的進化を遂げることになる。
中国の経済全体を緻密に正確に把握し調整しようとするデジタル貨幣技術や人々の欲望を抑え込む制御も変異一つではないか。MITの経済学者ダロン・アセモグルは過去の先進国における対中国の近代化論的な姿勢は、結局民主化を誘発できず誤りだったと指摘する。しかし、米国民主主義はトランプによる議会占拠事件によって棄損したままでは民主化そのものが胡散臭い。いづれにせよ日米貿易摩擦と同じように中国も近い将来行き詰まって、次の変異の痛みを感じることになるのだろう。
インタンジブル・キャピタルの暴走 欲望の資本主義2021 「格差拡大 社会の深部に亀裂が走る時」
ノーベル経済学者のスティグリッツが2001年に新装版「大転換」の序文を書いた。著者カール・ポランニーの「市場が社会から切り離されると社会は経済に支配され、社会は悪魔の石臼に挽きつぶされてしまう」という言葉から始まる2021年のNHK BS1スペシャル「欲望の資本主義」は、歴史の流れから飛び出した未必の破滅を描き出した。「労働による富」が自由経済によってグローバル化して「資本による富」へと変化した歴史が、「資本無き資本主義」という見えざる資産=インタンジブル・キャピタル(無形資産)の時代に進み、その利益独占の構造と格差社会を作り出したのだ。ポランニーは「大転換(Great Transformation)」のなかで、人間の経済は本来は社会関係の中に沈み込んでいるものであるべきで、帰属する社会から独り歩きした市場経済が世界規模に拡大して社会が破局的混乱にさらされるその様子をウィリアム・ブレイクの言葉を借りて「悪魔のひき臼」と呼んだ。
2004年オフィスにおける知的生産を研究するIBMの研究会で取り上げたのが「インタンジブル・アセット」だった。競争優位をもたらす見えざる資産構築法( https://amzn.to/3beNWaB )、IT投資と生産性の相関( https://amzn.to/3pQgpaI )などから考察したのは、企業価値は損益だけでは決まらないというソフトウェア時代が求める将来価値を追求する動きだった。しかし、歴史は生産性向上の欲望を悪魔の石臼に変えてしまった。「無形資産が経済を支配する( https://amzn.to/3rO4jAJ )」の著者ジョナサン・ハスケルは、知識資産、評判資産、関係資産、ブランドなどのインタンジブル・キャピタルはこれまでの工場や生産設備のような資産価値として換金できる資産ではなく「将来の稼ぐ力」をもたらすソフトウェア時代の価値だと定義した。デジタル資産は再生産コストがゼロに等しいという限界費用ゼロ社会なので結果としてソフトウェアの将来価値は毀損しないからだ。また、モノを大量に生産していた時代では発明したものを生産するのは設備や労働力を要するが、発明したインタンジブル・アセットは誰の手も借りずに金を生み利益が一人の手に渡る究極のROE経営だ。
ROE = 売上高純利益率 × 総資産回転率 × 財務レバレッジ ※売上高純利益率=当期純利益÷売上高 ※総資産回転率=売上高÷総資産 |
ROE経営とはつまり資本を減らし利益率を高め、会社を小さくして大きな利益を得るということだ。ファブレスやクラウド、オープンソースディストリビューションのようにして、手間や人手のかかる実際の価値創造を外出しにして知的資産の純利益だけの会社にしたいという。利益に関わる仕事に人はいらない、理想的には人はゼロで利益だけ上げてこいということだ。株式市場の経済アナリストが強く要請するROEは人の仕事を奪い利益の再配分を妨げてきた。人間の仕事を奪うのは人工知能ではなく経済アナリストなのではないか?こいつらに苺を作らせたら地球全てがいちご畑になって、誰も生き残らない。
番組では悪魔の石臼となったインタンジブル・キャピタルに至る経済の歴史をその転換点となったオイルショック、1974年を中心に丁寧に描き出す。設備投資を中心とした米国流の大量生産方式の産業化が進む産業革命の出鼻をくじいたのがオイルショックとそれに続くスタグフレーションだった(米国の全要素生産性の停滞と各国の長期金利の下落が始まるのが74年)。そこに登場するレーガノミクスはラッファーカーブという税に関わる理論を裏付けにした自由経済と金融経済のグローバリゼーションだった。お金をはモノを交換するためのものではなくお金を増やすために使われる、とハスケルは指摘した。この番組シリーズを通じて語られてきたのは、この自由経済の行きつく先は低賃金の輸入とあらゆるものがグローバルに相互依存する社会停滞のリスクだった。エマニュエル・トッドは次のように述べる。グローバル経済が昏睡してしまうリスクがパンデミックの分断によって露呈し、そういう意味でトランプ政権の保護主義的自国主義の経済運営は正しいと。
橋本はフリーターと就職氷河期から始まる非正規雇用者という新しい階級の誕生を指摘しつつ「一部の人を貧困に陥れて他方で経済成長するというのは幻想だ」と語る。人足市場の政商がぬけぬけと聖域なき構造改革だなどと派遣労働の規制緩和を進めた結果がこれだ。実は株式市場におけるROEなんていいう圧力を強めて、日本をアジアの低賃金と競争させようとしているのはアメリカの資本主義の強欲なのではないか、と思う。英エコノミスト誌の元編集長のビル・エモット氏は2020年末の日経ビジネスのブログに「失敗の背景はよく知られる。日本では従業員の40%近くが非正規、短期、パートタイムの契約で働く。企業は正社員と非正規社員の間で仕事を柔軟に調整し、賃金の引き上げを避けた。昇給もとてもささやかな範囲に収まってきた。その間、日本の最低賃金は経済協力開発機構(OECD)加盟国の中で最低水準になった。」と書いた。
アルメニア人を両親に持つ経済学者のダロン・アシモグルは一つの処方箋を見せる。インタンジブル・キャピタルの独占の罠は利益が労働者の手に渡らない=再配分できないということであり、自由経済が一つの限界に達したことを意味している。マイクロソフトのグレン・ワイルも富の集中は社会の成長を妨げると主張し、Googleに対する反トラスト法提訴は巨大企業に振る舞いを正させると言った。一方で、ダロンは経済成長が多くの国で人々を貧困から救ってきたのだと経済成長のスピードを低下させてはいけないと主張する。経済成長を続けながら社会や環境をよりよくするためにはどうするか?それは、かつて法律や制度だったものだが、Civil SocietyのSocial Norm(社会規範)へと変化しなくてはならないという。社会規範とは、例えば政府が脱炭素の規制をするよりも、人々が自ら電気自動車やFCVを好んで選択したり二酸化炭素排出量の少ない起業で働きたいと思うことだ。しかし、そのSocial Normはかつて日本にあった村社会の重苦しい不文律や慣習でもある。トッドは経済成長のメトリックとなる記号に変化を求めた。共同体への帰属化する新しい価値の記号とはなんだろうか。グローバル標準などという押し付けられた株式市場の成績のような記号ではなく、自ら選んだ各地方固有の資本主義のあり方を探る時代になるべきだ。
番組は最後にケインズの「平和の経済的帰結」を取り上げる。ケインズはこのなかで、ドイツに対する第一次世界短戦後の多額すぎる経済制裁は次の戦争を呼ぶと予言した。現実に、このような経済理論はドイツ社会を押しつぶし世界を破滅させるファシズムに進んでしまったのだ。ケインズの提言は現代になお重い。「資源と勇気と理想主義を協働させて文明の破壊を防がなくてはならない」のだ。
抽象化がもたらすもの~ソフトウェアアーキテクチャとは
抽象化がもたらすもの
抽象化とはある機能が果たしている動作やパラメーターを還元主義的に再構築したものである。デジタルカメラはカメラの持っている機能を再構築することではなく、フィルムをCCDに置き換えることで成立している。ゆえに、デジタルカメラはカメラの持っていたフォームファクターや伝統的なカメラの価値観に縛られ、カメラ市場という限定された市場での次元的競争が強いられる。結果としてコモディティ化が進み製品としての市場価値を失っていくことになる。一方でソフトウェアの世界では「写真を撮影する」という働きを還元主義的に再構築することでCCDとカメラソフト、スマートフォンへのインストールという異なるマーケットサイズへのアプローチが可能になる。スマートフォンは運命的にインターネットに接続された存在であるために、インターネット上の開発コミュニティとソーシャルネットワークのクロスネットワークエフェクトを直截的に享受して指数的成長を遂げ、開発者が意図した写真という範囲を否応もなく逸脱しインターネットライフスタイルという領域を開拓することになる。
→抽象化は単にこれまで実装してきた機能をAPIでアクセスできれば良いということではなく、機能の働きを還元主義的にソフトウェアに再構築することを目的としている。
ソフトウェアアーキテクチャとは
かつてIBMがComputing Tabulating Recording Companyと呼ばれていたころ(ワトソン、フェアチャイルド、ホレリスの時代)、計算機は機械や電気によって動作し、肉量り機のように重量と単価を掛け合わせて合計のレシートを印刷したり、パンチカードに穿孔された国勢調査票を集計して人口統計を印刷したりする専用設計だった。汎用コンピュータアーキテクチャとして生まれたIBM System/360は、これらのハードウェアの機能を入出力、処理制御、記憶というように還元主義的に再構築しそれらをInstruction Setというソフトウェアアーキテクチャに展開した。現代ではISAはプロセッサーアーキテクチャであるが、ISAが汎用プログラミングモデルを提供し、コンピューターの普及すなわちソフトウェアファーストの時代の第一歩を歩み出した。
→Hardware Abstractionとはハードウェアの課題をソフトウェアに還元し、汎用プログラミングモデルによるソフトウェアの成長を支えるものである。