イノベーションの風に吹かれて

山下技術開発事務所 (YAMASHITA Technology & Engineering Office, LLC)

カルロ・ロヴェッリ「時間は存在しない」

アリストテレスは何も動かなければ時間は経過しないと考え著書『自然学』の中で「暗闇の中ではわたしたちの体は何も経験しない」と述べた。反対にニュートンは『プリンキビア』の中で事物とは全く無関係な独立した流れの時間が存在すると述べている。近代物理学はニュートンの「数学的で絶帝的な真の」時間を用いることで非常にうまく働いてきたので長い間この対立はニュートンに軍配が挙げられてきた。

そこから千年以上遡る昔、キリスト教の聖人 聖アウグスティヌスは時間を知覚する自分たちの力を「わたしたちは常に現在にいる。なぜなら過去は過ぎ去っているので存在していないし、未来もまだやってきていないから。」と時間の経過を測るものはわたしたちの精神の中にしかないと、客観的な時間の概念を否定した。過去は記録でしかなく、未来は多くの可能性が未定なのだ。時間を根源的に定義づける熱力学におけるエントロピーも、秩序立つという前提を疑えば時間の経過によって乱雑になるという定義そのものが揺らぐ。

アインシュタインとその一派が顕にしたように、時間は相対的なものであって場所や重力の影響でその時間の進み方は異なっている。山の上では時間はさっさと流れ、低地ではゆっくり流れるのだ。時間も物質と同じようにこれ以上小さくできないプランク長(10のマイナス33乗センチメートル)のような単位で、時間の量子的な重なり合わせが存在しているようだ。かくして、時間も量子的な不確かさの混沌に投げ込まれ、すべてが主観的で相対的なものになっているのだ。

 

この本を読みながら、二年ほど前に書いたブログを思い出していた。

言語(CODE)と認知(Cognitive)
http://sociotechnical.hatenablog.com/entry/2017/06/28/144155 

SFの名作、テッド・チャンが書いた「あなたの人生の物語」は映画「メッセージ」の原作です。物語は言語をめぐる謎解きが中心なのですが、時制を超越した言語を持つ異星人が未来を予想する認知能力を主人公にもたらします。

この物語の中で異星人はその独特な言葉 文字を扱って時間を操り未来を予測するという。その能力が異星人にあるのは、その生まれた星では時間の流れが大きく違うところが存在していて主観的な時間の揺らぎに適応進化した結果だったのかもしれない。

非常に楽しい読書体験だった。満足満足。

 

 

「AI以後 変貌するテクノロジーの嬉々と希望」丸山俊一著

「AI以後 変貌するテクノロジーの嬉々と希望」丸山俊一著

マックス・テグマーク、ウェンデル・ウォラック、ダニエル・デネット、ケヴィン・ケリーという技術、倫理、哲学、そしてメディアの巨人を迎え撃つのは、NHKエンタープライズでBSスペシャル欲望の資本主義シリーズなどの話題作を世に問う、エクゼクティブプロデューサーの丸山俊一氏だ。

人工知能をAIという二文字に表すこの書籍は、テグマークのAI安全工学の枠組みでスタートする。アシロマAI原則、LAWS規制、富の集中などAI以後に抱える課題を明らかにし、AIが持つべき「意識」に質があるという地平に進む。ウォラックは倫理をテーマに自然科学をベースに人間共通の理性があるとする啓蒙思想が、倫理を道徳哲学によって科学することができるか、という問いを立てる。そして「知性」を自己認識と知恵と能力の判断だとする。意識を科学するのはダニエル・デネットだ。現在の技術が意識のあるような対話をすることを見せかけだと断じつつ、リチャード・ドーミンス利己的な遺伝子」のミームを出現させてAIの遺伝的進化をAIの創造性のロードマップとして描く。ケヴィン・ケリーはこれまでテクノロジーに影響され続けてきた産業革命以降の人類の来し路をたどって異質なものと交わることで多くを得ることができたのだといいつつ、AIは人間にとって異質な隣人となるか言葉を濁す。

丸山氏はこの四領域を一つ一つ丁寧にピックアップしつつ、意識は身体にインストールされているのか、身体が意識を持っているのか意識の二元論を俯瞰していく。それはこれまで論じてきた意識に関する議論を統合して、東洋的な心身一元論と対比しながら知性の「理解力なき有能性」という結論に近づいていく。

 

本書の短くコンパクトにまとめられた凝縮した議論は、大きな知的興奮を与えてくれます。

現在、人工知能の工学的なアプローチで安全性や説明可能性が注目されていますが、ケリーは説明可能なAIを作るということが、自己存在と能力判断という知性を持った意識を作り出すことにつながるといいます。身体と意識の二元論は知性における一つのアーキテクチャであって、タコの知性のような分散処理系と人間のようなより中央集権的な処理系の違いでもあります。ウォラックは文中で、神経科学者バーナード・バーズが提唱した「意識はワーキングスペースで統合される」という意識の構造であるグローバルワークスーペース理論を機械に実装することができると中央集権的な二元論の実装を意識させます。一方でAIの意識がその処理能力故に必然的に分散処理を運命づけられるのであれば、群れのパターンが局所的相互作用が大量に集まって創発するというような群制御理論がAI以後の意識の基礎になるとも思います。デネットは進化を「設計なき適応」としましたが、AI以後のAIの進化が漸近性を獲得するなら、遺伝的アルゴリズムがもつ変異を時間に織り込んでいく生物の進化から人間が独立したような自律的進化を手に入れるかもしれないという可能性を示します。

「理解力なき有能性」はダニエル・カーネマンのファーストアンドスローを思い起こさせる。システム1によって引き起こされた誤りに満ちた非合理な判断は、非合理で有用な結論を導くか。そして、システム2がもたらす合理性は、それを極限まで突き詰めたときに限界費用ゼロ、富の偏在そして資本主義の崩壊をもたらしてしまうのは避けられないのだろうか。

 

日経記事 「物価はなぜ上がらないのか アマゾン・AIで構造変化?」

物価はなぜ上がらないのか アマゾン・AIで構造変化?

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO49396010U9A900C1I00000/

 

グローバルサプライチェーンによって拡大した経済圏では需給をベースにした価格調整機能は働かず、失業率が下がっていても物価は上がらない。また、デジタルエコノミーによる超効率経済では生産物流の合理化がすすみ、様々なプロセスをバイパスすることで中間の需要を喪失し、そして最終価格は需給には無抵抗に下がってしまう。そのデフレ圧力下ではものよりお金の価値が高くなり皆、お金を持っていたいので貯蓄は増えて企業は不確実性に備えてキャッシュを積み増す。そして需要がどんどん消え去っていく。

記事の中では言う。「金融政策の力には限界があり、財政政策が重要になる。それは政治的なイデオロギーではなく、経済的な現実だ」(ローレンス・サマーズ前財務長官)

ITが経済をぶっ壊しているというのは、ITをコストダウンにだけ利用しようとしているからだ。今から必要なことは経済性を損なっても人類の未来のためになることに多くの支出をすることだろうと思う(SDGs)。地球温暖化や海洋プラスチックというような課題に直接的な投資をすべきだと思うが、経済合理性がないのでそれに代わる新しい共同幻想を作り出すことは可能だろうか。

 

 

奇跡の経済教室【基礎知識編】 中野剛志

 

平成日本はサッチャーレーガンに続く、ハイエク新自由主義が席巻した時代と捉え、日本のデフレ脱却の失敗を鋭く指摘する異説の書です。「小さな政府」と「自由市場」を目指した「構造改革」の中身だった財政支出の削減、消費増税行財政改革規制緩和、自由化はいずれも人為的にデフレを引き起こす政策でした。それに反して、ケインズは慢性的な需要不足によって経済活動が停滞し不要な失業が生じる不況時において、財政を出動して政府が需要を作り出すべきだと論じました。

平成を通じ日本経済はデフレに苦しんできていますが、経済成長というのは基本的にインフレを前提としています。インフレは需要過剰・供給不足なので、貨幣価値が下がっているので金よりモノがほしいという状況になります。一方で、デフレは需要不足・供給過剰なので貨幣価値が上がっているのでモノよりも金を持っていたいという人が増えてしまいます。「合成の誤謬」というのは、デフレの時には物価が下がり給与が抑えられるのだから、流動性性向が高まり貯蓄を増やすのはミクロで見たときの個人や企業として合理的なのですが、経済全体では需要がさらに減退し、マクロ経済として見た時には誤りになってしまうことです。本書は財政出動における国債と財政の動態を「信用貨幣論」によって解説しようとしています。

本書に倣ってインフレ時とデフレ時の対策の違いを比較してみます。

・インフレ対策
需要を減らすためには消費と投資を減らす。公共投資を減らし小さな政府にすることと、民間投資を抑制するために消費税などを増税、日銀が金利をあげる。供給を増やすためには生産性を向上させて同一原価での生産量を増やす、規制緩和や自由化、グローバル化によって競争を促進して生産性をより高める施策をとる。

・デフレ対策
需要を増やすためには消費と投資を増やす。財政支出を拡大し、減税を行う。規制を強化し事業を保護する。

 

本書は財政出動における国債と財政の動態を「信用貨幣論」によって解説しようとしています。この信用貨幣論についてはデヴィッド・グレーバーの名著「負債論」に詳しい。負債論については法橋和昌氏の書評もぜひ参考にしていただきたい。

https://kznrhs.hatenablog.com/entry/2019/08/22/011300

グレーバーは古代中世の貨幣の歴史を通じ、貨幣は物々交換から発生した等価交換の「貨幣商品説」ではなく、貨幣は負債と信用の印である「信用貨幣論」を展開しました。負債と信用を簡単に解説してみます。太郎が春に苺を収穫して二郎に渡し、代わりに秋に二郎がとった芋をもらうことにしました。二郎は太郎に対して負債を負い、太郎は二郎に対して信用を与えています。太郎は二郎が発行した借用書を持っているとします。そこに三郎がやってきて太郎に薪と将来の芋を交換しようと借用書を持っていくことができます。三郎は四郎に借用書を渡すことで、士郎の持っている梅を買うこともできるようになるのです。このときに二郎が秋に借用書の持ち主に対して芋を渡すことができるという信用が4人全体で共有されています。そもそも物々交換を成立させるはずの両者の欲望がぴったりと合うことはめったに起こらないため、貨幣商品説は成立しなかった、というのがグレーバーの見立てです。

ある負債を基準とした信用を流通させることで発生した貨幣なので、貨幣を創造するということは負債を発生させるということになります。その基本から銀行の役割が見えてきます。現代貨幣の大半を占めるのは現金ではなく預金です。銀行は企業や個人に例えば一千万円を貸し出した時、銀行の現預金から現金を取り出して手渡すのではなく、借り手の口座に一千万円と書きつけた時に負債、つまり貨幣が発生しているのです。これを信用創造と言います。そして、借り手が債務を返済すると預金通貨は消滅します。準備預金等の銀行自体の健全性のための規制はあるものの、銀行は貸付けのために自由に通貨を発生させることができるという存在なのです。銀行の貸出しの限界は手元の資金量ではなく借り手の返済能力にあります。銀行による国債の買い入れも同様、日本銀行による政府への信用創造であって事実上の財政ファイナンスと言ってよいのです。こうした信用貨幣論によると、政府が国債を発行して赤字財政支出を行うことは、国の借金を増やし負担を増やすと思われがちであるけれど、財政赤字はそれと同額の民間貯蓄を生むので問題がないということです。国の支出は需要を増やしデフレを脱却する一つの道だということです。また自国通貨立ての国債を発行している以上、その国家が破綻することはないということも論じています。

小さな政府、行財政改革プライマリーバランス回復、自由化、規制緩和グローバル化の推進というような平成日本の行財政方針は完全にインフレ対策のための処方箋であって、貨幣がどういうものであるかを理解していないことで、起こった未曾有の大惨事だということです。イギリス女王から尋ねられたように、これまでの経済対策をリードしてきた主流派経済学者はなにをしてきたのでしょうか。

その主流派経済学者から厳しく批判されている、現代貨幣理論MMT(Modern Monetery Theory)は本書の立場と同じく自国通貨と自国通貨建て国債を発行できる国家は破綻しないというものです。財政赤字によるインフレのリスクを考慮しない極論と片付けられがちなMMTですがデフレに苦しむ超生産性社会において、あたらしい資本主義運営の形なのかもしれません。政府の関与を大きく考えている本書では、ビットコインのような自由主義の仮想通貨についても否定的に考えています。ビットコイン金本位制と同じ「貨幣商品説」に法っているので、発行ペースと上限が制御されているので、年々希少性が高まり価格が上がりやすいのです。貨幣の価格が高くなるということはデフレを引き起こす原因となり、中央銀行のないビットコインは経済政策をとりにくいため貨幣としての役割を果たせないと考えているようです。

NHK「欲望の資本主義 特別編 欲望の貨幣論2019」視聴メモ

https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/2443/2225682/index.html


「貨幣信用説」貨幣は情報である。

ビットコインは貨幣そのものをアダム・スミスの提唱した「市場の神の手」に委ねるようなもので、1976年ハイエクの貨幣自由化論(貨幣非国有化論)による純粋な自由放任主義の実現ともいえる。しかし、ジャン・ティロールによるとマネーロンダリングの危険が除去できないいかがわしさと、国家の持っている通貨発行益が消えてしまうこと、そして金融政策を壊してしまうことを指摘してビットコインは成功しないと言った。

ビットコインは採掘による希少性と新規発行ペースと上限の設定によって金本位制通貨と同じ構造を持ってしまった。そのために金融市場などの安定のために機動的に金融政策を実施することはできず、貨幣の機能を果たすことができない。現状貨幣は金本位制から離脱し経済規模の限界を超えた資本主義の発達を支えている。これは、物を交易するという経済が、お金を中心に変わったということを示している。

ビットコイン(仮想通貨)は投機資産として使われてしまいお金として使われなくなってしまった。本来お金は誰もが一定の価値を認めることで流通するものだが、価値が大きくなることを期待して貯蓄することを目的とした投機になってしまった。投機とは使うためではなく人に渡すために入手するものであるけれど、お金も他の人が受け取ってくれると信じるから入手するのであるから、通貨というのは元来投機的な側面がある。ケインズの「美人投票(美人に投票するのではなく一番人気を予想してしまう)」の話にあるとおり、投機が不安定になるのは非合理的な人がいるからではなく多くの人が合理的に振る舞うから人の心を読まなくてはならなくなるからである。

マルクスは全ての価値を労働に基準を求め「労働価値説」を提唱したが、総量が決まっている以上、金本位制などの貨幣商品説と変わりはない。岩井教授は「お金の価値は社会が決める」という自己循環論法(=お金の価値を決めている社会の価値構造もお金によって成り立っているので自己循環している)から、貨幣は誰もがその価値で受け取らざるを得ないという存在であるといった。ケインズは将来への不安などから将来の可能性を確保するためにお金を欲しがり貯蓄するという「流動性性向」を定義した。デフレは物価が上がらない現象をいうが、相対的にお金の価値が高くなっていくので流動性性向はより強化され貯蓄性向が高くなっている。使うためだったお金が、お金を目的とした経済行動へと動いてしまったのが近代日本の問題だ。

古代ギリシャアリストテレスの時代、貨幣は都市生活者の必然であった。貨幣によって独立できる個人という存在が可能になり、平等な個人という民主主義を育むことになる。一方で貨幣に対する無限の欲望は、無限の蓄積を呼んでしまう(デフレが貯蓄性向をさらに強める)。人々の自由のためにあると新自由主義を訴えたハイエクも数字の競争から逃れられない。スティグリッツによると、アダム・スミスは資本主義の行く末など見たこともないのだから経済の全てを見えざる手に放任してはいけないと指摘した。強欲にまみれた自己利益の追求そのものが自由意志などではない。

資本主義とは「商品生産をともなう活動全体」であるとしたら、「産業革命以来科学が生産性を高め、費用と価格に差を作ってきた(スティグリッツ)」。交易によって差は辺境へと広がり、貿易によって経済に組み込んでいくことで成長してきた。岩井教授によると資本主義は、普遍化して辺境を失い不純物がなくなってしまうと滅びるのだ。資本主義が本来的に持っている不安定さ、貨幣が無限に溜め込まれる流動性性向が格差、不平等、環境破壊、金融危機を引き起こしている。ハラリは「合理的な資本主義を突き動かしている不合理な欲求に放任しても幸福は実現できない」と指摘する。スティグリッツは「資本主義はもうお金だけを追う人だけでは進化しない」として新しいアイディアの実現や環境などのSDGsへの投資を銀行家のモラルに求めるようなことが必要だと言った。

情報資本主義というディストピア。未来の通貨はデータが創る。データを前提とした価値体系というものが忍び寄っている。GAFAに操られて、プロファイルやコホートのある数値になる人々の行動。いいねの数、サービスの評価ポイント、個人のファイナンススコアなどの評価経済は、そのうちにより良い評価を得るための行動へと変化するだろう。しかし評価は常に平均との比較であり、平均以下という辺境を作り出す存在でもある。貨幣の匿名性は評価経済への最終防波堤である。イマヌエル・カントは人間の内なる価値を「尊厳」として交換できない価格に転換できないものとしたのだ。

 

欲望の資本主義 第三弾 「偽りの個人主義を超えて」

欲望の資本主義 第三弾 「偽りの個人主義を超えて」を書籍化。The FourでGAFAを厳しく批判したスコット・ギャロウェイ、その後に暗号資産の将来の賛否を述べてから、ユヴァル・ノア・ハラリがホモ・デウスで述べたような技術の静かな暴走がもたらすディストピアを警告します。そして、気鋭の哲学者マルクス・ガブリエルの新実在論から見た経済と社会を語った記録です。ハイエクの語った新自由主義は本当に自由な経済人によるものだろうか、中央政府による支配を語るケインズは正しいのだろうかという疑問をなぞっていく形で進みます。 

エクゼクティブ・プロデューサーである丸山俊一氏が記すあとがきでは、ハイエク新自由主義デュルケームの連帯と分業(私たちにはマイケル・ポーターバリューチェーンというような俗っぽいものの方が馴染みやすいが)の論考から、組織を離れた個人の自律的な連帯が語られます。しかし、インターネットが目指した公平なピアツーピアで自律的な理想はうち倒れ、GAFAのような存在は中央集権的に人々を支配しています。ハイエクは「社会における知識の利用」において完全な情報は集中的に統合された形では存在しないがゆえに中央集権的な計画経済による統制は失敗すると主張しましたが、今GAFAのような存在が世界の欲望にかかわる完全な情報を持つのであればレオニード・カントロビッチが『経済資源の最適配分論』で述べたように計画経済が社会に高い効率をもたらすのではないか、と論じたのは「プラットフォーム革命(Modern Monopolies)」を書いたアレックス・モザド達です。社会主義的な計画経済が超効率を社会にもたらした限界費用ゼロ社会は、個人の自己決定の余地を残してくれるのでしょうか。すべての物や行為にプライスタグをつけようとするトランプのような経済的存在に対して、個人は真実を体現する”時間”という価格につながらない価値を見いだすことができればこの経済という呪縛から逃れることができるのでしょうか。


丸山俊一氏はさらに、自我の存在を語るダニエル・デネット「心はどこにあるのか」を示し、心は脳にだけ存在するという心身の二元論を否定する。IBM TEC-Jプレゼンツ「知性の勉強会 第二弾 意味とはなにか知性のアーキテクチャ」では、自我は意識の中にあるけれども、意識は自我という枠の中に存在するのではなく、意思を持たない小さな生命体の群生とその分散的な制御のなかにあるのかもしれないという議論をしました。経済的な行動との結びつきはまだよくわからないですけども。

自由な研究テーマを自由な時間に行うことの大切さ

うちの会社では技術者が自由に研究活動を自律的に行うことを推奨しています。テクニカル・コミュニティといいテクノロジーカンパニーとしてよい文化だと思います。しかし、社員が時間を使っているのだからということなどで管理強化を訴える人がいます。

 

〜以降は私の個人的な意見です〜 

「テクニカル・コミュニティは責任ある個人が自律的に研究活動を行うもので、誰かから与えられた活動の評価指標のようなものは不要です。」

 

グローバルの研究開発への貢献やビジネスの成果、対外的な資格認定や論文評価など、組織的に求めたくなる指標はありますが、テクニカルコミュニティにとってそういった成果は讃えこそすれ形式的な管理評価は不要です。「自由な研究テーマを自由な時間に行う」ための時間的なゆとりが技術者の創造性を育み、反対に指標さえ満足すれば良いという行動から脱することができると思うからです。
テクニカル・コミュニティにおいて最も重要なことは参加者の自由な研究意欲です。しかし評価が前提となった研究活動では期待された効果があるものしか選択できません。失敗と無駄を恐れ、評価に繋がらないテーマには挑戦しないので、自然と全体が同質化してしまいます。そのように秘密結社化すると、新規参入のハードルが高くなり多くの活動が多様性を失いダイバーシティインクルージョンを失ってしまいます。結果として組織は不確実性に対応できず、不連続な成長を手に入れられません。

現実的にコミュニティ活動をリードしていく場面でも、評価基準を明確にしようとすると、評価基準が決まるまで動けないので活性化の時機を失ってしまうし、そもそも管理そのものにかかるコストが高く、効果もありません。

デイルドーテンは「試してみることに失敗はない」と名言を残しましたが、研究活動において結果が失敗に見えようとも、あらゆる研究成果が尊いと思います。そういう意味では、例えば人工知能ロボットによる東大入試から撤退した著名な女性研究者をこぞって研究の失敗だと叩くのは間違いだと思いますし、さらにダイバーシティを失った行動です。私はこれからも、失敗に学び果敢に新しい領域に挑戦する技術者や研究者の自由な活動の場を維持したいと思います。

 

<さらに個人的な蛇足>
TIM O'Reillyは近著「WTF経済」で「単純で分散化したシステムは中央集権化した複雑なシステムよりも新しい可能性の生成がうまくいく。それはより素早く進化できるからだ。」と述べました。同様に知識が分散化して存在する自律的な組織とそれをゆるやかに協調するコミュニティがより早い進化をもたらすものだと考えています。シャロン・ダロッツ・パークスの名著「リーダーシップは教えられる」においても現代のリーダーシップはカリスマ的なリーダーによる中央集権管理ではなく、チームの熱量を調整する役割である、と数値管理を厳しく否定しています。また、コミュニティは最近流行りのホラクラシー組織とも違います。コミュニティでは基本的な価値観をコンスティテューションにはするものの、権限やそれに対応した明確な役割は無いからです。つまり、ありきたりな管理強化に頼るのは、複雑化する時代においてリーダーシップを論理的に設計できないことの裏返しなのです。ホスト集中のシステムばかり設計していないで、分散システムを協調的に動かす仕組みでも設計したらいいのにね。