イノベーションの風に吹かれて

山下技術開発事務所 (YAMASHITA Technology & Engineering Office, LLC)

NHK「欲望の資本主義 特別編 欲望の貨幣論2019」視聴メモ

https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/2443/2225682/index.html


「貨幣信用説」貨幣は情報である。

ビットコインは貨幣そのものをアダム・スミスの提唱した「市場の神の手」に委ねるようなもので、1976年ハイエクの貨幣自由化論(貨幣非国有化論)による純粋な自由放任主義の実現ともいえる。しかし、ジャン・ティロールによるとマネーロンダリングの危険が除去できないいかがわしさと、国家の持っている通貨発行益が消えてしまうこと、そして金融政策を壊してしまうことを指摘してビットコインは成功しないと言った。

ビットコインは採掘による希少性と新規発行ペースと上限の設定によって金本位制通貨と同じ構造を持ってしまった。そのために金融市場などの安定のために機動的に金融政策を実施することはできず、貨幣の機能を果たすことができない。現状貨幣は金本位制から離脱し経済規模の限界を超えた資本主義の発達を支えている。これは、物を交易するという経済が、お金を中心に変わったということを示している。

ビットコイン(仮想通貨)は投機資産として使われてしまいお金として使われなくなってしまった。本来お金は誰もが一定の価値を認めることで流通するものだが、価値が大きくなることを期待して貯蓄することを目的とした投機になってしまった。投機とは使うためではなく人に渡すために入手するものであるけれど、お金も他の人が受け取ってくれると信じるから入手するのであるから、通貨というのは元来投機的な側面がある。ケインズの「美人投票(美人に投票するのではなく一番人気を予想してしまう)」の話にあるとおり、投機が不安定になるのは非合理的な人がいるからではなく多くの人が合理的に振る舞うから人の心を読まなくてはならなくなるからである。

マルクスは全ての価値を労働に基準を求め「労働価値説」を提唱したが、総量が決まっている以上、金本位制などの貨幣商品説と変わりはない。岩井教授は「お金の価値は社会が決める」という自己循環論法(=お金の価値を決めている社会の価値構造もお金によって成り立っているので自己循環している)から、貨幣は誰もがその価値で受け取らざるを得ないという存在であるといった。ケインズは将来への不安などから将来の可能性を確保するためにお金を欲しがり貯蓄するという「流動性性向」を定義した。デフレは物価が上がらない現象をいうが、相対的にお金の価値が高くなっていくので流動性性向はより強化され貯蓄性向が高くなっている。使うためだったお金が、お金を目的とした経済行動へと動いてしまったのが近代日本の問題だ。

古代ギリシャアリストテレスの時代、貨幣は都市生活者の必然であった。貨幣によって独立できる個人という存在が可能になり、平等な個人という民主主義を育むことになる。一方で貨幣に対する無限の欲望は、無限の蓄積を呼んでしまう(デフレが貯蓄性向をさらに強める)。人々の自由のためにあると新自由主義を訴えたハイエクも数字の競争から逃れられない。スティグリッツによると、アダム・スミスは資本主義の行く末など見たこともないのだから経済の全てを見えざる手に放任してはいけないと指摘した。強欲にまみれた自己利益の追求そのものが自由意志などではない。

資本主義とは「商品生産をともなう活動全体」であるとしたら、「産業革命以来科学が生産性を高め、費用と価格に差を作ってきた(スティグリッツ)」。交易によって差は辺境へと広がり、貿易によって経済に組み込んでいくことで成長してきた。岩井教授によると資本主義は、普遍化して辺境を失い不純物がなくなってしまうと滅びるのだ。資本主義が本来的に持っている不安定さ、貨幣が無限に溜め込まれる流動性性向が格差、不平等、環境破壊、金融危機を引き起こしている。ハラリは「合理的な資本主義を突き動かしている不合理な欲求に放任しても幸福は実現できない」と指摘する。スティグリッツは「資本主義はもうお金だけを追う人だけでは進化しない」として新しいアイディアの実現や環境などのSDGsへの投資を銀行家のモラルに求めるようなことが必要だと言った。

情報資本主義というディストピア。未来の通貨はデータが創る。データを前提とした価値体系というものが忍び寄っている。GAFAに操られて、プロファイルやコホートのある数値になる人々の行動。いいねの数、サービスの評価ポイント、個人のファイナンススコアなどの評価経済は、そのうちにより良い評価を得るための行動へと変化するだろう。しかし評価は常に平均との比較であり、平均以下という辺境を作り出す存在でもある。貨幣の匿名性は評価経済への最終防波堤である。イマヌエル・カントは人間の内なる価値を「尊厳」として交換できない価格に転換できないものとしたのだ。