イノベーションの風に吹かれて

山下技術開発事務所 (YAMASHITA Technology & Engineering Office, LLC)

マルクス・ガブリエルが唱える精神のワクチンとは?NHK BS1スペシャル

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マルクス・ガブリエルが唱える精神のワクチンとは?NHK BS1スペシャ

コロナに対する行動を慎重(10)から無視(1)とした時に自分の行動指針は7くらいでガブリエルさんと同じくらい。3くらいの人がマスク拒否したり集会開いたりするのは、どうかと思うけどできるだけ近寄らなければいいかな。近くでタバコ吸われるのと同じで、くそ迷惑だけどこっちで避ければいいことだよね。1や2くらいの人はちょっと攻撃的で価値観が違いすぎる。ガブリエルさんは相変わらず、答えが決まってしまう科学を否定する。科学は物事の成り立ちを探求するものだけど、それはすなわちわからないことがわかることだと思う。だからコロナに対して、科学的に「わからないことが多いから」今はすこし慎重な7の対応ができるのだと思うよ。

唯物論、物質主義、消費資本主義が限界を迎えているなかで、モノの希少性に駆り立てられるのではなく思考という無限の地平を求めよう、というのは非常に面白い。思考することを思考する、重層化した考えは前のインタビューでも語られていたことね。斎藤幸平氏マルクス解釈でも労働という人間の営みを無限の泉のような「ラジカルな潤沢さ」としていて、私にとって労働は思考の結果でもあるので、強い共通性を感じる。そういう意味で、芸術とかスポーツとかも内省的で限界のない世界なんじゃないかな。そういうもので自分を成長させることも思考と同時に大事だと思うけど、どうかな。https://sociotechnical.hatenablog.com/entry/2020/10/04/090744

「時間は存在しない」~中世初期のラテン教父、アウグスティヌス(354―430)は「過去はすでに過ぎ去って存在せず、未来はまだやって来ていない」と時間を運動と速度から切り離してみることで時間は現在にしか存在していないといいました。時間の相対性は物理学上の一つの発見でもあります。https://sociotechnical.hatenablog.com/entry/2019/10/27/222012

科学の発見とガブリエルさんの哲学の発見が、時間という未知のフィールドでまみえるのは、良いことだと思う。

 

コモンズの謎を解く、資本主義の行く末の一つの答え

 

著者はあとがきでひとりごちる「マルクスで脱成長なんて正気か?」
革新という古臭さを乗り越えてマルクス主義に立ち戻るなんていう衝撃をあなたは受け止めることができるか?

ジェレミー・リフキンの限界費用ゼロ社会、デビッド・グレーバーの負債論、スティグリッツプログレッシブキャピタリズム、そして宇沢弘文で繰り返し語られる資本の強欲とそれに対峙する社会的共通資本に関する議論を一つにまとめて、マルクス資本論の真意に迫った斎藤幸平氏が示す理論と実践の書。リフキンの示したシェリング経済、グレーバーの貨幣経済スティグリッツの公的資本など資本主義の次のあるべき姿から、どうしても宇沢の社会的共通資本に繋がらなかったミッシングリンクはここに存在していた。

インターネットのスケールフリーな不均一性がプラットフォーム事業者の巨大な中心性に飲み込まれ、ピアツーピアの原則が損なわれ経済的な格差を大きくしている。ウィズコロナのビジネス、ライフスタイルに乗じて危機便乗型の市場収奪は目に余る。社会の産業が資本家を中心に労働を搾取していったことを、インターネットは指数級数的に加速している。パリや京都ではAirBnBのようなルームシェア経済は、不動産価格を住む場所の価格帯からホテルルームの資本回転率の世界にしてしまった。不動産市場では投機対象となってしまったアパートや高級マンションはかつての住人を追い出して、もはや住む人もいない。そしてそこに住んでいた人たちを貧困へと追いやっている。デヴィッド・グレイバーやスティグリッツは言う「資本主義の獰猛さによって労働組合や公共医療等が解体され」労働者の生活よりも資本の理論が優先される。

資本主義は境界を押し広げ辺境を求めて彷徨い、自然環境変化のポイントオブノーリターンなプラネタリバウンダリに近づいている。フレドリック・ジェイムソンの「資本主義の終わりを想像するよりも世界の終わりを想像するほうが容易い。」という言葉が重い。経済とCO2消費を比例させないデカップリングが求められているが、不都合を経済の外縁部に押しやるオランダの誤謬にも注意を払いたい。現在の自然科学は無償の自然力を搾取・浪費するものであって自然科学が資本主義の富の生産性指標だけに寄与するなら、それは「合理的」ではない。大地である地球をコモンとして持続可能に管理できる合理性を求めるべきだ。資本主義の理論からは、自然の私財化によって減る公富は希少性の増大と私財の増大につながりGDPの増加という連鎖を呼んでいる。つまり、GDPの増加は公富の減少を前提にしていうということを意味している。

資本主義的合理性を押し付けてくる米式のコンサルタントや啓発本みたいなものから「日本株式会社」にあった労働の潤沢さを、合理化という労働力の間引きの結果として希少性に追い込まれて、労働そのものが競争になってしまっている。また、電力会社、日本電々、郵政公社国鉄、高速道路などを非効率な公共事業として、「公正な競争」などというお題目で民営化して公的事業を利益収奪事業にしていったのは、政権に蔓延っている口入屋みたいな人材派遣会社の親分が構造改革だなんて言ったことだ。結果として社会の労働環境も同時に資本市場に解放され就職氷河期と労働搾取の派遣市場、最近では就活市場なんていう暗黒世界への道のりが出来上がってしまった。

そこでしめされるのが「ラディカルな潤沢さ」という理論だ。水や太陽は奪い合わない程度に潤沢であるがゆえに資本主義的な価値は少ない。資本主義は根源的に希少性を作り出して競争させる政策をとっている。ここでの論論はその希少性を否定し希少性を競い合う成長を否定する。本書ではロシアのミールやゲルマン共同体という共同体(コモンズ)が紹介されているが、1980年代から度々起こる「日本鎖国論」は辺境を求めず国内産業の均衡と価格優位でない交易を目指す優れた考えであることが思い起こされる。そもそも、昔の武家の仕事はコモンズであり、水を管理し自然を穏やかに使い安全を守る役割で、その時代の労働者は謀反や逃散で領主の治世に対抗していた。非効率だから競争しろという「公正な競争」なんていう知ったようなことをいう経済学者たちは、これまでの「合理的な個人による市場形成」「神の手」なんていう思いあがったモデルが資本主義なんて言う化け物を生み育てたということを認識すべきだ。生産性を上げていくときの分子となる生産は資本の言うところの生産ではなく自然消費を含めた系全体の持続可能性を加算した生産になるべきであって、生産性を上げていくのはあくまでも労働の成果であって、労働そのものがコモンであるならその成果も環境に帰属する。それは労働の喜びの集積であるという。

本書の最後に示されるのは、マルクス資本論に隠された5つの真の構想である。「使用価値経済への転換」「労働時間の短縮」「画一的な分業の廃止」「生産過程の民主化」「エッセンシャルワークの重視」詳しくは本書を最後まで読んでいただきたい。

過去の関連ブログ
https://sociotechnical.hatenablog.com/entry/2020/04/30/153746  
https://sociotechnical.hatenablog.com/entry/2017/05/12/144747

IT産業では効率化を求めて非常に厳しい分業が行われている。ネットワークはネットワーク専門家、データベースはDB基盤とDB設計、サーバー、OS、ミドルウェアというようにスキル別分業が行われている。専門知識を深化させること、同じことを繰り返すことで習熟することで確実に利益を事前に確定させることが求められている。しかし、エンジニアリングという労働の喜びは同じことを繰り返す作業効率の向上だけでは得られない。エンジニアリングという労働の創造性という喜びは新たな領域や新たなニーズによって生まれている。エンジニアの成長は、分業による作業だけでは得られず研究や探求という自由が必要なのだ(Googleの20%ルールやIBM AoT/TEC-Jは非常に優れた考えだ)。スキル別組織の限界は現在のIT産業の直面する深刻な課題だ。

 

映画ブレードランナーの胡蝶の夢は、ゲーデルの不思議の輪

マルクス・ガブリエル 危機の時代を語る (NHK出版新書 635)
新書 – 2020/9/10
丸山 俊一 (著), NHK 「欲望の時代の哲学」制作班 (著) 

急激に変化する価値観の中で普遍でなどいられない。

アメリカンフリーダムなんて、相変わらず「自由を強いる」ことで世界を支配しようとしている。国を爆撃することで人々に自由を与えるなんて、自由を強制している。グローバリズム経済とセットになった自由の押し売りは、実際は資本主義の使徒となっているだけなのに。それに、爆撃されたのはガブリエルが言うような国ではなくて、原爆や焼夷弾に焼かれた民衆だったと思う。古くから民衆はあまりに強い抑圧からは「逃散」してしまう。それが最も強い体制への抵抗なのだと思う。民なき国家、国家なき民、それがアメリカ式への世界からの答えなのかもしれない。

ソーシャルディスタンスによって形成されつつあるリモートコミュニケーションを仮想的だと否定する元に戻りたい人たちがいるけれど、その空間に新しい関係性と価値が生まれると考えたい。なぜなら、仮想化(Virtualize)とは空虚な空想空間のことを意味するのではなくソフトウェアによってその実体を実現しようとする実体化なのだということを、技術者は知っているからだ(還元主義的だけど)。国や民族は数学的には集合のようなもので、たとえば同じ場所に近接しているという属性がなくても日本人は日本人だし華僑は中国人だ。

 

繰り返し述べられるのが還元主義的な知性の二元論への反論だ(そこは同意)。

二元論は脳細胞の物理的な動きが人の意識を動かしているという、非常にアメリカ的な唯物論的な考え。マトリックスの中で食される肉は、栄養素と精神への刺激だけのものだという還元主義的な構造で意識を捉えることはできない。なぜなら、その肉にも野山で生まれ育った記憶が宿っているものなのだ。意識の問題を、意識について考えている脳という問題にすることで解こうとするのは、問題の重層的な形式的体系の構造をモデル化する考えのようだ。論理式を数として取り扱うというゲーデル不完全性定理のような抽象度の高い領域で決定性を問うアプローチだけれど、すでに「ゲーデルエッシャー・バッハ」で人の意識の螺旋について、別方向から議論されている問題だ。人はマクルーハン的な知覚、記憶の拡張があって重層的に知性を有していると思う。さらに、ヘーゲルの言う「人には精神のつながりがある」のであれば、インターネットが作り出す情報圏が、インフォスフィアなんていう人をからめとり抑圧する精神圏ではないと信じたい。

 

科学技術と人類の未来はもっと明るくなくちゃいけない。

デジタル技術の発展が人類の現在と未来に悪をなしていると繰り返し述べるマルクス・ガブリエル。科学技術と資本主義を、快楽を覚えたサルのように描く彼に対して、テレビは画素数よりもリビングでの家具的佇まいに価値を移しているし、車もこれまでの機械としての価値よりも社会の中における適した位置に移していくような知恵があるものだ、とマスビアウ(コンサルタント)は対峙する。チャン・ストーン(文化政治学)も日本のZ世代の大量生産に背を向けたクリエイティビティや中国の不連続性の連続などで個人や集団の知恵を評価する。

ガブリエルは新自由主義の終焉とは、あまたの経済学者が自分に都合の良い前提をおいた経済モデルが作り出した市場経済カニズムが実はなにも働いていない事が明らかになったことだと言う。経済モデルが数理科学のモデルであることは間違いないのだけれど、それは数学が誤っているわけでも技術が邪悪なわけでもなくて、単にそれを用いた経済学者の知力が足りていなかっただけだ。さらに最近のシリコンバレー叩きに乗じて、これまでマスメディアを規制してきた規制当局に倣ってFacebookに対する規制強化を強く述べているのだけれど、これもネットワークやメディアに関わる規制や法的枠組みを下敷きにした議論ではない。GAFAの独占を独裁と言い「啓蒙無きモダニティ」と断じるガブリエルは老子プラトン仏陀から受け継いだ善の概念ですら失敗であり、わが哲学に従えとばかりに持論を述べる。科学と技術によって作られた文明の果てがディストピアでないために哲学は必要だと思うが、美術や宗教だって大きな役割を果たしていくものだと思う。

経済は良心的な中産階級を取り戻すことができるのか

ジョセフ・E・スティグリッツ PROGRESSIVE CAPITALISM

 ~経済学のこれまでの理論は間違っているらしいですよ~

ノーベル経済学賞を受賞したスティグリッツ教授の最新作です。一貫してトランプを反知性政権としてその政策のほとんどを滅多切りにしています。まるで、アメリカの資本主義がこいつのせいで、と言わんばかりの語勢です。もちろん、スティグリッツさんなのでこれまでの歴史的な齟齬や失敗はクールに解説してるんですけど、ことトランプが登場するとなると「怒りの鉄槌」です。オバマが良かったわけではないのだけれど、政権によってここまで悪くなるとは。トランプ批判は読んでいただいたほうが実感が沸くので、それ以外のことをいくつか引用しながら、解説しますね。どうも経済学のこれまでの理論は間違っているらしいですよ。利己的で実利的な存在は経済活動の主体なんかじゃなくて、単なる強欲な詐欺師だと。

 

「標準的な経済学の教科書を見ると、競争の重要性が強調されている。なるべく低いコストで良い製品やサービスを提供しようとする無数の企業が容赦なくイノベーション競争を展開してきた。」しかし、「経済のトリクルダウンなど嘘だ。不動産業界や金融業界に支配されたそのほかの産業では一部の裕福な経営者だけが豊かになり、労働者にはなにも分配されてこなかった。」

→不公平な税制やタックスヘイブンによる租税回避など、強欲な詐欺的なことができる側と搾取されるだけ搾取される労働者というような、公平性の概念を欠いた制度が生まれる現象はアダムスミスの神の手なんていうのは倫理の天秤などを持ってはいないということでしょうか。アダムスミスはその両面があると主張したらしいですけど経済学の神様ですら強欲にはかなわないんですかね。

 

「製造部門のグローバル化は労働力のグローバルな競争を引き起こし、国内においても労働者は低い賃金に甘んじなくてはならない。だから会社は労働組合を嫌う。労働組合の弱体化は労働者と経営者の溝を深くしてきた。」

→これは共産主義が手ひどく崩壊してしまったことの反射的な影響なのだけれど、金融資本主義に染まった経営者が労働者を搾取する格好の論理となったのでしょう。労働者が生産性の高い高い給与の仕事に就くためには、教育が必要なことは言うまでもないのだけれど、教育が荒廃し形式主義に染まって効果を上げないなら、労働者が豊かになることはない。これは、日本でも同じだと思います。

 

「現代の金融資本主義社会ではごく少数の企業が利益を独占し支配的な地位を維持し、現代の金融制度は強欲な金持ちによる略奪的・詐欺的慣行によって社会を破壊してきた。」

→一体、だれが経済学でいうところの「利己的で実利的な存在としての人間」なんていう単純化したモデルを論理的に正しいとしてしまったのだろう。そんな単純なモデルで評価された「会計の数字」だけが正しさの結果だというような貧しい精神の持ち主が資本主義の勝者なのだ。スティグリッツは本来の人間は社会的存在であり、社会的な共通資本である文化やコミュニティを大切にし、搾取や詐欺を嫌い、利他的で集団を活かすものだったはずなのにと嘆いています。

 

最後にスティグリッツは言います。「まともな生活を送るために必要なことはわずかしかない。公正な報酬、生涯の保障、子供の教育、住宅の所有、負担にならない医療と言ったことだけだ。」彼は、こうしたことを行政や規制という「利益に無頓着な」存在によって実現するべきだと主張します。保険や給付というようなことを実行する民間の利益団体が手数料や金利を課すことで企業が多くの人たちを搾取するようなしくみではなく。

IBM Distinguished Engineerだったもの(いわゆる退職エントリー)

IBM Distinguished Engineerだったもの(いわゆる退職エントリー)

私事ですが、33年勤務したIBMを退職することにしました。2007年にエンジニアの最高職のIBM Distinguished Engineerに指名され最高の栄誉をいただいたこの会社に対して、深く深く感謝させてください。本当にありがとうございました。私のテクニカルキャリアは順調満帆だったわけではないですが、多くの素晴らしい仲間に恵まれてとても充実した技術者半生を送らせていただくことができました。

 

着任以来先輩たちはずっと私に指導をしませんでした。だから、私は自分で考えて動かさせてもらえました。自分で学んで考えたことは自分で責任をもってやり遂げるしかない、これが先輩たちの教えだったと思います。部門や個人の目標数字や与えられた職責というようなKPIベースのノルマではなく、考えるチームは非常に強いと実感しています。KPIの追及は業務効率は良いのですが、変化に弱いしモラルも下がってしまいます。また、KPIさえ達成すればよい、あるいは営業の数字のためには正しくない行動でもいい、という誤ったメッセージになってしまいます。KPIの達成は会社の価値(バリュープロポジション)を追求し、お客様と社会に迎え入れられた結果であるべきです。そういう意味で、考えるチームは素晴らしいパフォーマンスを残せると思います。

 

技術的にも非常に素晴らしい環境を提供していただきました。常に新しい技術やアプリケーションにチャレンジさせていただく、理解のあるお客様に囲まれて技術の正常進化を見続けることができました。アプリケーションの時代からオープンシステム、インターネット、ネットワークサービス、クラウドコンピューティングと幅広い経験を最先端で学び続けることができたのは人生にとって非常に豊かな時間でした。会社は求める数字ができるからと言って安易なシステム設計やお客様のためにならない提案を決して強制することはなく、不確実性の高いIT業界において最善のサービスを提供できる環境を整えていました。私のチームは最高のチームだったと誇らしく思います。

 

会社の中には20%ルールのように有名ではありませんが、業務外の技術分野であってもエンジニアが自由に技術や社会について研究、ディスカッションする場がありました。テクニカルコミュニティーという文化です。自由な研究の場が与えられていることで、チームは幅広い多様性を維持することができ、組織は変化に対応する柔軟性を内包することができます。米国本社を含め、IBMの経営者はテクニカルコミュニティーを信頼し経営課題を諮問しては、私たちの答申を真摯に実行してきました。企業の経営と社会にインパクトを与えるエンジニアリングを実践する場であったと思います。いかに目前の数字に影響があろうともテクニカルコミュニティーの警告や進言を無視しない企業経営者は非常に立派なものだと思いました。世界中に広がる技術者集団を「仲間」として共に切磋琢磨したテクニカルコミュニティーの時間は惜別の思いです。

 

多くの皆さんに支えられ、また応援していただいて定年退職を迎えることができて本当に幸せです。退職後は個人事務所で業務を開始いたします。これまで同様、システム分析設計、レポート作成、原稿、セミナー勉強会、プロジェクト支援等、皆様には変わらぬお付き合いをいただきたく、お願い申し上げます。

 

山下技術開発事務所 合同会社

YAMASHITA Technology & Engineering Office LLC.

代表 山下克司

IBM Japan - HQ

 

マイクロサービスのコンテナクラスター

先日の白熱塾ではインフラ系のOSSクラスタリングやデリバリパイプラインの系譜について話してきた。「OSSの話じゃない」と言われたので、このブログではまったくOSSのソフトウェアに触れず機能だけを解説することにしてみた。ご参考になれば。

 

Delivery Pipeline

アプリケーションが様々なライブラリーを必要として複雑化している環境で、開発者が編み出した工夫がコンテナだ。開発環境のガバナンスの強い環境では開発管理者が準備したライブラリーに縛られてしまったり、逆にガバナンスの弱い環境では他の開発者に勝手にライブラリーを変更されてしまったりするので、共有する開発マシンへの不満は大きい。サーバーを共有している他の開発者がスケジュールを無視してビルドを始めると全く動かなくなってしまうこともある。そこで開発者は開発マシンの中に自分独自のファイルシステムとリソース領域をを所有できるシステムを開発した。そのOSとライブラリーのスタックに閉じこもってプログラミングをすることで、外からの干渉がない開発テストが可能になった。しかし、このビルドをリリースするのは難しい。本番環境のOS、ライブラリーの依存関係が固定化していたらDEV/UTの環境の作業は無効だからだ。そこで出てくるのがImmutable Infrastructureだ。開発者のUT環境をそのままコンテナイメージ化して、コンテナをデプロイしたらUT環境と全く同じ動作できる冪等性を維持できるように、コンテナ実行環境を整備しておくことで開発環境をそのままリリースすることができる。

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コンテナ・クラスターとダイナミックオーケストレーション

コンテナイメージはInfrastructre as Codeであって、Immutable Infrastructureは実行中のサービスに変更を加えることは許されない。実行しているサービスとソースとなっているコードの間に差異が生じるとコードを再デプロイしたときの再現性が失われ冪等性がなくなるからだ。

こうしたことから考えると、コンテナを「負荷が少なく起動が早いサーバーインスタンス」と理解するのは誤りだ。コンテナはビジネスニーズに応じて、Blue-GreenやA/Bテスト、カナリアリリース、サーキットブレーカなどの様々なリリースパターンを実現するためのコードベースのデリバリーバイプラインである。Immutable Infrastructureではテスト済みサーバーをリリースするのではなくテスト済みコードをリリースする。コンテナシステムではリリースされたコードを管理するライブラリ、そのライブラリから実行環境にデプロイする機能、コンテナイメージを認証するセキュリティなどの機能が中心になっているのはそのためだ。

 

NFR Management

コンテナベースのシステムにおける可用性の考え方は、クラウド環境のFailure Based Designに基づいている。クラウド環境は非常に多くのコンポーネントが用いられているので障害に出会う可能性は高い。しかし、クラウド基盤は大規模なスケールを持っているので障害は局所的であることが多く、クラウドに再プロビジョニングを任せれば正常なサービスを得ることができることが多い。コードベースのImmutable Infrastructureを実現していれば、リリース作業を再度起動すれば同じサービスを再開できると考えるのが基本だ。固定的なサーバーをどれだけ長く動かし続けることができるか(MTBF)という視点でSLAの可用性を管理するのではなく、動かなくなったらどれだけ早く回復できるか(MTTR)という自動化の視点で管理するのが望ましい。サービスのメトリクスを管理し、システムのログやインシデントを総合してサービスの健全性を判断し、サービスインスタンスの追加や削除、再デプロイなどを管理するのがクラスター機能だ。VMベースでもコンテナベースでもクラスタリングの機能は提供されるので、適したクラスタリングフレームワークを選択すればよい。サービスメトリクスはアクティブユーザーなどのビジネスメトリクス、APM等からフィードされるパフォーマンスメトリクス、システム監視からフィードされるシステムメトリクスがある。プロバイダー、リージョン、AZにまたがるこれらのメトリクス群とトランザクションコストを総合的に判断して、非機能要件性能の管理を自動化することが求められている。

コンテナベースのクラスターを用いている場合、サービスのデプロイから起動にかかる時間を短縮できる。このことはダイナミックオーケストレーションへの異なる要求を生み出している。十分にチューニングされたコンテナ環境では数十ミリ秒から数百ミリ秒でサービスの起動が可能なので、ユーザーのAPIコールが届いてからサービスの起動をすることも可能だ。もちろんトラヒックのない時にインスタンス数をゼロにしておくことはないが、トラヒックが到着してからサービスの提供環境を変化させる動作が可能になっている。)このことは可用性に関する考え方を大きく変化させる。サービスは動いている状態が安定しているのではなく、動いていない状態が安定しているのだ。ここまで述べてきた通り、コンテナのサービスインスタンスは動いていないことが安定しているので、コンテナのライフサイクルは極力短くします。インスタンスは、現在のインフライトの処理数、総処理数、連続稼働時間などのポリシーでできるだけ短いサイクルでリフレッシュしておくのがよいでしょう。こうしたことを日常的に行うことで緊急時の対応が迅速に行えるようになる。こうしたクラスタリングの様々な機能をパッケージングしたコンテナクラスターのダイナミックオーケストレーションは非機能要件の管理に新しい考え方をもたらしている。

 

Volatile vs. Persistent

アプリケーションにはフロントエンドの揮発性インスタンスとデータを保持する永続化インスタンスが必要です。コンテナクラスター内で動かすフロントエンドのアプリケーションは再デプロイして機能を再開することが前提となっているので、基本的にステートレスであるべきです。ステートレスなアプリケーションは負荷分散装置で並列化することができるため、負荷分散装置がクラスターの入り口に配置されています。負荷分散装置配下のコンテナはクラスター内のプライベートなアドレスを自動的に振られ、コンテナクラスターの発行するサーバー証明書をそれぞれインストールしています。こうしたステートレスなインスタンスは前の節で述べた通り、いつ消滅してもアプリケーションに影響が少ない揮発性のインスタンスです。一方で、トランザクションのセッションや再ロードできないデータセットなどはデータベースやデータストアに永続化しておく必要があります。これらの永続化するインスタンスはデータの保護を中心に考えて負荷分散装置とは異なる実装をします。インメモリーのキャッシュや多地点保存のオブジェクトストレージ、同じくマルチインスタンスのKVSなど永続化の特性によって選択します。

フロントエンドの揮発性インスタンスは、どのような環境でデプロイされても必要な永続化インスタンスの位置を探り当ててサービスとしてバインドすることが必要です。永続化インスタンスとの接続プロファイルにも冪等性のあるバインディングのメカニズムが求められます。負荷分散機能、コンテナ、ライブラリ、デプロイ、モニタリング、永続化サービス、バインディングなどを一つにまとめたアプリケーションクラスターを活用することで、クラウドネイティブな環境を一気に手に入れることもできる。

 

Transaction Control Point

永続化インスタンスを運用する上で、アプリケーションレベルではトランザクションログの保全トランザクションコンペンセーションを適切に設計していることが大切です。フロントエンドでセッション情報を維持することは極力避けたいので、ユーザーの発するトランザクショントランザクションコントロールポイントを設定してトランザクションログを保全するべきです。近年のWEBアプリケーションにはこうした傾向にあるので、フロントエンドではユーザーアクションをログに書き出し、バックエンドのアプリケーションプロセスがログを読み出して永続化処理を行うPublisher-Subscriberのアーキテクチャパターンを選択することがあります。SOA時代のコレオグラフィーというアーキテクチャーパターンに非常に近い考え方です。こうすることで、バックエンドのマイクロサービスはドメイン境界を厳守した個別のデータとトランザクションでの運用が可能になります。アプリケーション障害が発生した場合にはログをベースに、各マイクロサービスにトランザクションごとの処理状況を確認してフォワードリカバリーあるいはロールバックを選択することができます。インフライトのトランザクションのコンペンセーション負荷が高くなりすぎないようにマイクロサービスのトランザクションリカバリーはトランザクションごとに分散して行えることが重要です。

欲望の資本主義2020 日本・不確実性への挑戦

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ここで示される日本の課題は高齢化、分断そして格差だ。

ジャック・アタリは日本の競争力は低下し続けていて先進諸国最下位だと言う。森田長太郎は長期的な労働対価の低下の原因として、IT産業を頭脳資本主義と槍玉にあげる。IT産業の能力格差は鉱工業生産性の格差をはるかに上回るという主張も繰り出される。労働力の格差は労働者の奴隷化や相対的貧困を生んでいる。スティグリッツは資本主義の利潤が民衆のためにならない現実に対し、民主主義が正しく働いていないと批判した。今年の番組では、格差の彼我をこれまでの資本家と労働者階級ではなくIT産業とそれ以外の産業従事者ととらえ、同じ労働者集団内での格差に視点を移している。

MMT(Modern Monetory Theory)の議論も活発だ。MMTの詳しい内容は他に譲るとして、これまでの経済学では市場参加者の一つとして捕らえられていた政府を、市場と向かい合う対立した位置に置くことで市場における貨幣流通量の調整能力として考えるのがMMTだ。そこで向かい合うべき金融政策のFinancial Constraintは財政の健全性ではなく、民間の生産力に見合った通貨流通量だ。しかし、もちろん円という通貨に対するグローバルな資本家たちの信頼を失ったら通貨そのもののが機能しなくなってしまう。

 

MMTを実践したと言われている日銀の異次元緩和をリードした岩田元副総裁は、それはデフレとの戦いだと繰り返し述べる。デフレが需要を冷やして生産が抑制された結果、正規社員の採用を抑え、非正規労働者の増加と低賃金につながり、結果としてデフレスパイラルに陥ってしまう。将来への不安がモノよりお金を持っていたい心理に拍車をかけてしまうと言う。そのうえで、2%程度のインフレが正しいインフレだという認識を示す。需要喚起策としての低金利を需要の先食いだなどと批判するエコノミストは需要の本質がわかっていない、人間の欲望(需要)は本来限りがないものだと岩田は喝破する。知ったような顔をして「日本経済の停滞は経済的な実力を失ったからだ」という悲観論者は将来の不安をあおり期待を下げる厄介者だ。そもそも問われている実力とはなんなのか?米中IT産業と伍する力だとでもいうのだろうか。岩田は、現実問題として(因果関係が証明できないけど)新しい産業や新しい知識職に対する企業の需要は高まり、結果として近年は人手不足を作り出せていると指摘する。

<思うこと> そうだ、新しい人材に対する期待は高まっている。その期待は裏切られるとも裏切られないともわからない投機にちょっと熱をあげているようでもある(人材バブル)。今、日本に問われている「経済の実力」とは「希望を持つ」ことであり、それは新しい知識を持ち変革の萌芽をもたらしてくれる若い力だと思う。変革の果実は不確実で約束なんてされていないけれど、人材への投資は、日本経済の将来をかける希望なのだ。

 

不確実性に対処するには、労働環境における移動の自由を保証して労働と生産の安全性を高める(アタリ)、人口動態を注視し国家の繁栄に必要な人口目標を立てる(森田)、経済の線形モデルを複雑系のカオス的なものに置き換える(ファーガソン)などの主張が紹介された。これまでも経済学の線形モデルに基づく理論が正しく将来を予測できた試しはない。経済に必然的に含まれている不確実性は計算できるリスクなどではなく、計算不能なものだからだ。森田は線形モデルではなく実態から計算する必然性を語った。

<思うこと> これまでの科学的研究では、人間が認知しやすいようにパラメーターの少ない(オッカムの剃刀)単純なモデルを線形代数に表して、計算結果と現実を比較することで正しさを検証してきた。しかし、現代の深層学習や統計的機械学習では「複雑な事象を複雑なまま大量のデータとして扱ってモデルを生成する」(PFN丸山氏の講演より)ことができる。圧倒的なデジタル処理能力の向上が人間の認知限界に拘束されないモデルを、現実のデータからリバースエンジニアリングするように作り出すことができるのだ。これからの経済学には机上の理論ではなく現実の写像となるデジタルツインの空間像が大きな役割を果たす。

 

次に登場するのは前回、欲望の資本主義2019特別編に登場した貨幣論岩井克人だ。ガルブレイスが資本主義を、欲望を作り出す製品広告の構図であり欲望は生産に依存すると言った。GAFAに集中する力や中国の監視社会にブロックチェーンを用いている点を指摘し、評価経済の怖ろしさを説く。評価経済は必ず平均値があり平均以下の評価貧困の格差を生み出すというのだ。岩井は常に資本主義が辺境を求め、格差による利潤を求めて彷徨うと資本主義の行方を暗示した。さらに貨幣論でも語られた不安心理によってお金を貯め込んでしまう不況の深因だったり、貨幣そのものが他人の信用を当てにする、かつ人に渡すために手に入れる目的の「純粋な投機」であったりすると、貨幣の正体を明らかにする。美人投票に語られる合理的行動の不合理さもここで示し、限定合理性の判断が政治(民意)をも歪めている現実を直視させられる。

<思うこと> GAFAブロックチェーンを監視社会に基づく評価経済ディストピアとしているのは、技術が人によって運営されている点にあえて目を背けた議論ではないだろうか。監視したいのは政府であり、スコアによって有利に行動したいのは個人なのだ。突出した相関関係を見ると因果関係にあると勘違いするのは経済学のセオリーなのか、ITを悪者にしたら誰もが納得するのは利用可能性ヒューリスティックの代表例のようだ。

 

ケインズ曰く、経済は「数学的な期待値ではなく自然と湧き上がる楽観」によって動いている、経済の本質的な不安定性を根拠のない選択であるアニマル・スピリッツだ。アダム・スミス以来、経済学のモデルは全ての経済的関係を契約に基づく利益に置き換えてきたが現実は異なる。経済合理性はすべての経済的選択を支配しているわけではなく、相互の信認によって「任す、任される」という関係が存在しうる。スティグリッツは日本の経済学の巨人、宇沢弘文を議論に引きずり出し、宇沢のいう社会的共通資本(Social Capital)は、人間がまやかしの豊かさではなく本当に心が生き生きとする社会を実現しようとしていると説く。社会的共通資本(a.自然環境 b.社会的インフラ c.制度資本)は利潤を生む資本主義の経済とは切り離すべきだというのが、宇沢の主張だ。 社会的共通資本には経済的な合理主義は似合わない、そこに岩井の「本当の心の自由を守るために、自由放任主義と決別すべき」という主張が重なってくる。

<思うこと> 経済学が純粋科学のように打ち立ててきたモデルが崩壊し(実はそもそもモデルが正しく働いたことなんてなかった)神の手による合理的な選択は結局強欲となって社会システムを蝕んできた。また、AmazonGoogleが行なっているような直接的な利潤追求とは違うデジタルの経済活動に直面すると神の手は凍り付いてしまう。

 本来人間同士の信頼によって成立してきた貨幣による資本主義の形を「コモンズ(共同体)」の発想に修正するのが社会的共通資本の方向性なのだろう。これまで放任してきた公的経済を単純化することなく複雑系のまま理解し公共の利益のために制御することが果たしてできるのか。人間の知恵が試される。