イノベーションの風に吹かれて

山下技術開発事務所 (YAMASHITA Technology & Engineering Office, LLC)

欲望の資本主義2020 日本・不確実性への挑戦

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ここで示される日本の課題は高齢化、分断そして格差だ。

ジャック・アタリは日本の競争力は低下し続けていて先進諸国最下位だと言う。森田長太郎は長期的な労働対価の低下の原因として、IT産業を頭脳資本主義と槍玉にあげる。IT産業の能力格差は鉱工業生産性の格差をはるかに上回るという主張も繰り出される。労働力の格差は労働者の奴隷化や相対的貧困を生んでいる。スティグリッツは資本主義の利潤が民衆のためにならない現実に対し、民主主義が正しく働いていないと批判した。今年の番組では、格差の彼我をこれまでの資本家と労働者階級ではなくIT産業とそれ以外の産業従事者ととらえ、同じ労働者集団内での格差に視点を移している。

MMT(Modern Monetory Theory)の議論も活発だ。MMTの詳しい内容は他に譲るとして、これまでの経済学では市場参加者の一つとして捕らえられていた政府を、市場と向かい合う対立した位置に置くことで市場における貨幣流通量の調整能力として考えるのがMMTだ。そこで向かい合うべき金融政策のFinancial Constraintは財政の健全性ではなく、民間の生産力に見合った通貨流通量だ。しかし、もちろん円という通貨に対するグローバルな資本家たちの信頼を失ったら通貨そのもののが機能しなくなってしまう。

 

MMTを実践したと言われている日銀の異次元緩和をリードした岩田元副総裁は、それはデフレとの戦いだと繰り返し述べる。デフレが需要を冷やして生産が抑制された結果、正規社員の採用を抑え、非正規労働者の増加と低賃金につながり、結果としてデフレスパイラルに陥ってしまう。将来への不安がモノよりお金を持っていたい心理に拍車をかけてしまうと言う。そのうえで、2%程度のインフレが正しいインフレだという認識を示す。需要喚起策としての低金利を需要の先食いだなどと批判するエコノミストは需要の本質がわかっていない、人間の欲望(需要)は本来限りがないものだと岩田は喝破する。知ったような顔をして「日本経済の停滞は経済的な実力を失ったからだ」という悲観論者は将来の不安をあおり期待を下げる厄介者だ。そもそも問われている実力とはなんなのか?米中IT産業と伍する力だとでもいうのだろうか。岩田は、現実問題として(因果関係が証明できないけど)新しい産業や新しい知識職に対する企業の需要は高まり、結果として近年は人手不足を作り出せていると指摘する。

<思うこと> そうだ、新しい人材に対する期待は高まっている。その期待は裏切られるとも裏切られないともわからない投機にちょっと熱をあげているようでもある(人材バブル)。今、日本に問われている「経済の実力」とは「希望を持つ」ことであり、それは新しい知識を持ち変革の萌芽をもたらしてくれる若い力だと思う。変革の果実は不確実で約束なんてされていないけれど、人材への投資は、日本経済の将来をかける希望なのだ。

 

不確実性に対処するには、労働環境における移動の自由を保証して労働と生産の安全性を高める(アタリ)、人口動態を注視し国家の繁栄に必要な人口目標を立てる(森田)、経済の線形モデルを複雑系のカオス的なものに置き換える(ファーガソン)などの主張が紹介された。これまでも経済学の線形モデルに基づく理論が正しく将来を予測できた試しはない。経済に必然的に含まれている不確実性は計算できるリスクなどではなく、計算不能なものだからだ。森田は線形モデルではなく実態から計算する必然性を語った。

<思うこと> これまでの科学的研究では、人間が認知しやすいようにパラメーターの少ない(オッカムの剃刀)単純なモデルを線形代数に表して、計算結果と現実を比較することで正しさを検証してきた。しかし、現代の深層学習や統計的機械学習では「複雑な事象を複雑なまま大量のデータとして扱ってモデルを生成する」(PFN丸山氏の講演より)ことができる。圧倒的なデジタル処理能力の向上が人間の認知限界に拘束されないモデルを、現実のデータからリバースエンジニアリングするように作り出すことができるのだ。これからの経済学には机上の理論ではなく現実の写像となるデジタルツインの空間像が大きな役割を果たす。

 

次に登場するのは前回、欲望の資本主義2019特別編に登場した貨幣論岩井克人だ。ガルブレイスが資本主義を、欲望を作り出す製品広告の構図であり欲望は生産に依存すると言った。GAFAに集中する力や中国の監視社会にブロックチェーンを用いている点を指摘し、評価経済の怖ろしさを説く。評価経済は必ず平均値があり平均以下の評価貧困の格差を生み出すというのだ。岩井は常に資本主義が辺境を求め、格差による利潤を求めて彷徨うと資本主義の行方を暗示した。さらに貨幣論でも語られた不安心理によってお金を貯め込んでしまう不況の深因だったり、貨幣そのものが他人の信用を当てにする、かつ人に渡すために手に入れる目的の「純粋な投機」であったりすると、貨幣の正体を明らかにする。美人投票に語られる合理的行動の不合理さもここで示し、限定合理性の判断が政治(民意)をも歪めている現実を直視させられる。

<思うこと> GAFAブロックチェーンを監視社会に基づく評価経済ディストピアとしているのは、技術が人によって運営されている点にあえて目を背けた議論ではないだろうか。監視したいのは政府であり、スコアによって有利に行動したいのは個人なのだ。突出した相関関係を見ると因果関係にあると勘違いするのは経済学のセオリーなのか、ITを悪者にしたら誰もが納得するのは利用可能性ヒューリスティックの代表例のようだ。

 

ケインズ曰く、経済は「数学的な期待値ではなく自然と湧き上がる楽観」によって動いている、経済の本質的な不安定性を根拠のない選択であるアニマル・スピリッツだ。アダム・スミス以来、経済学のモデルは全ての経済的関係を契約に基づく利益に置き換えてきたが現実は異なる。経済合理性はすべての経済的選択を支配しているわけではなく、相互の信認によって「任す、任される」という関係が存在しうる。スティグリッツは日本の経済学の巨人、宇沢弘文を議論に引きずり出し、宇沢のいう社会的共通資本(Social Capital)は、人間がまやかしの豊かさではなく本当に心が生き生きとする社会を実現しようとしていると説く。社会的共通資本(a.自然環境 b.社会的インフラ c.制度資本)は利潤を生む資本主義の経済とは切り離すべきだというのが、宇沢の主張だ。 社会的共通資本には経済的な合理主義は似合わない、そこに岩井の「本当の心の自由を守るために、自由放任主義と決別すべき」という主張が重なってくる。

<思うこと> 経済学が純粋科学のように打ち立ててきたモデルが崩壊し(実はそもそもモデルが正しく働いたことなんてなかった)神の手による合理的な選択は結局強欲となって社会システムを蝕んできた。また、AmazonGoogleが行なっているような直接的な利潤追求とは違うデジタルの経済活動に直面すると神の手は凍り付いてしまう。

 本来人間同士の信頼によって成立してきた貨幣による資本主義の形を「コモンズ(共同体)」の発想に修正するのが社会的共通資本の方向性なのだろう。これまで放任してきた公的経済を単純化することなく複雑系のまま理解し公共の利益のために制御することが果たしてできるのか。人間の知恵が試される。